ウンコが未来をつくる

糞土師:伊沢 正名 (茨城)

●黙ってはいられない
 秘密保護法に集団的自衛権、辺野古新基地建設、武器輸出、原発再稼働、カジノ解禁、リニア新幹線…権力と金の亡者のやりたい放題が続いている。おまけに、ジャーナリズムの多くまでがその尻馬に乗り、ヘイトスピーチは止まず、行政や公共施設は平和を求める声を締め出し、社会全体が急速に危険な方向に進んでいる。この卑しい人間性はいったいどこから来ているのだ? もちろん、デモや声明を出したりして、それらに反対する人々も大勢いる。それは理性と欲、あるいは善と悪との闘いなのだろうか?
 前々から私も反原発の金曜デモに参加したいと思いつつなかなか叶わなかったが、嫌な流れがここまで加速してくるとじっとしてはいられない。昨年11月末に水戸で行われた「特定秘密保護法反対」デモを皮切りに、「原発再稼動反対・国会大包囲」「安部政権ストップ」「集団的自衛権反対」などのデモに加わった。だからと言って、これで社会人としての責任を果たしたとか、問題解決につながるとは思っていない。ただ黙り込んで、権力や金の亡者どもをこれ以上のさばらせ、社会をぶち壊されたくないからだ。

●正義ではなく、責任で闘う
 善悪とか正義とは、いったいなんだろう。何を基準にしてそれを判断するのだろう。金や力が好きな者には金や権力が正義であり、戦争するのも原発再稼働も悪いこととは考えていない。自分の好きなものが善であり、嫌いなものを悪と決めつけて排除し、叩き潰すのが正義だ。だから戦いは、善と悪というより、互いの正義と正義のぶつかり合いになる。
 正義の人に自分の正義を説いたって始まらない。それは押し付けになるだけだ。だから私は正邪善悪で物事を判断するのを止めることにした。では、何を基準にするかといえば「責任」である。戦争や放射能汚染・環境破壊など良いはずがない、と考えるのはまともだが、それ以上に金や権力を欲する者が大勢いることも事実だ。欲に比べたら、理性など弱い存在でしかない。欲に流されるのをこらえ、理性を守るために必要なのが責任感だろう。
 糞土思想の根っこにあるのも「責任」だ。他の生き物を食べて命を奪い、ごちそうを汚いウンコに変えて生きている自分自身の責任に向き合い、その責任を果たすために命を返す。その究極の方法がノグソなのだ。そこには小難しい屁理屈や知識はいらない。戦争や原発問題でも、その結果にしっかり責任を取れるのかを推進派に問い詰め、言い訳の屁理屈を許さない強い気概を持つことだ。理論も大切だが、それ以上に「責任」を前面に押し出して、今の私は闘っている。

●トイレが未来をつくる?
 先日の南会津の講演会で、小学生の子どもを連れて参加した母親から『トイレが未来をつくる』という絵本があると教えられた。
 世界中には今でもトイレが無い不衛生な生活を送っている人々が大勢いる(人口の1/3とも言われている)。そうした地域にトイレを作って病気や死を遠ざけ、健康で明るい未来をつくろう、という内容なのだろう。いかにも良識ある人が考え、そして納得しそうな話だが、その場で糞土師の口を突いて出た言葉は「そんな絵本は糞書(焚書)にすべきだ!」
 それがやさしさや思いやりから出たものであることは百も承知だし、そのやさしさ自体を否定する気はない。しかし人が、特に現代人が生きるために、他の生き物や自然にどれほどの犠牲を強いているのか。そしてそれが、将来どんな結果をもたらすのか。そういう視点が完全に欠落しているのだ。
 この限られた地球上にすでに70億の人々がひしめき、今世紀末には100億に達すると言われている。それだけの人口を養う食糧や資源を安全に確保し、さらに人間活動から排出されて環境を破壊する大量のゴミ問題を解決できるのか? それなのに、西洋科学や医学の進歩が招いた異状な人口増加を、更に加速させようというのか。古代文明の滅亡を引き合いに出すまでもなく、それは地球上の陸地全体を砂漠化させかねない、破滅への暴走だ。そのエネルギー源が、夢や希望、発展、さらには人類愛などという良識の中にある。まさに「人は善をなさんとして悪をなす」ではないか。
 この傲慢で目先だけの人間中心主義は、しかしながら「やさしい愛」でもあるから、ヘタに批判しようものならたちどころに、「お前こそ冷酷なヤツだ」と徹底的に非難されかねない。良識の怖さと危険性である。
 その翌日に講演した早大学園祭では、講演後の話し合いの中で一参加者から、「私は倫理感があるのでノグソはできない」と言われてしまった。私には倫理感が無いというのだろうか? そうではない。奪った命を返さなければ、という倫理で私は毎日ノグソをし続けているのだ。時間がなくて、その人の倫理の根底にあるものを尋ねられなかったのは残念だが、ここでもやはり良識のいかがわしさを疑わずにはいられなかった。

●本物の良識とは
 だからこそ良識は、うわべだけではない「本物の良識」に昇華しなければならない。では、本物の良識とはどんなものだろう。私が考えるのは、常に責任が伴っていることだ。その責任は、己を滅して、相手の側に立ってみれば見えてくる。たとえば、食事の前の「いただきます」。
 食は命を頂くことで、食べる相手にどんなに感謝したところで、それは食べる側に立った自己満足のきれいごとではないか。自分が食われて命を奪われる側になってみれば、いくら感謝されたって食われるのはイヤだ。ではどうするか。感謝の気持ちや言葉で自分をごまかし、納得するのではなく、食べて命を奪ったことへの責任をとればいい。それが、奪った分の命を返そうという『ノグソは命の返し方』なのだ。
 そしてもう一つ、本物の良識人に欠かせないのが自己否定できることだろう。何事にも完全は無い。間違いや足りないものが必ずある。それを放置したまま良い面をどんなに伸ばしても、本物にはなれない。欠点に気付いたらそれまでの自分を否定し、改めることは欠かせない。
 私事で恐縮だが、菌類と隠花植物という狭い分野にすぎないが、一応写真家として認められる存在になったし、日本だけでなく世界でも通用するという自負もあった。それを捨てて、つまり否定して糞土師になったのは、そこに大きな欠陥、つまり写真で訴えることの限界を見出したからだ。そのことで以前のキノコ関係などの仲間からは、「我々を捨ててウンコの世界へ行ってしまった裏切り者」などと非難され、人間関係の大半を失ってしまった。それでも本物に一歩近付けたことに、私は大きな悦びを感じている。その一方で新たな「仲間」に出会うこともできたし、予想外の面白さも発見し、今では糞土師活動が楽しくてたまらない。

●闘う相手はエセ良識
 私は今、小池桂一さん(フンド坊のひと言メッセージ連載中! *1)の素晴らしいマンガと、管啓次郎さんの文による『野生哲学・アメリカインディアンに学ぶ』(講談社現代新書)を再読している。アメリカインディアンには「七世代の掟」というものがあり、何事かを決定するにあたっては七世代先までの影響を考慮するのだという。なんという謙虚さと責任感、そして深い洞察力なのだろう。
 その対極にあるのが、目先の利益に振り回され、見境もなく何にでも手を出す現代文明人の軽薄さだ。それはひとえに、自然に依拠して生きてきた先住民の文化と、自然を征服して豊かさを手に入れようとしてきた西洋文明(西洋哲学)との根本的な違いにあるのだろう。自然を征服しようと考えた時点で、夢や希望は傲慢と一体化し、本来は素晴らしいものであったはずの良識までが、欲望をスマートに見せるための道具にされてしまったのではないか。今の私には、つくづくそう思えてならない。

 平気でウソはつく。人の意見も聞かず、質問ははぐらかし、批判には逆ギレする幼稚さ。立憲主義のイロハも理解できず、我こそは最高責任者であると、やりたい放題のゴジャッペ(箸にも棒にも掛からないどうしようもない奴、という茨城弁)総理にひっかき回されながら、まともに対応できない日本社会の腐れかけた良識。物が腐るのは土に還るために重要だが、良識が腐るのは最悪だ。近頃の糞土講演会では必ず、いかがわしい良識批判をやることにしている。こんなふうに…
 ハエが何匹もたかったウンコのスライドが映し出された時に、緑色に光るキンバエを指し示し「このハエがきれいだと思う人、手を上げてください。」たまにまばらに上がるだけで、ゼロのことが多い。「では、ハエは汚い虫だと思う人は?」多くの手が上がる。「こんなに美しく光り輝いているのに、どうして汚いんですか? それは、ウンコにたかるからでしょう?」みんなうなずく。「でも、汚いのはウンコの方ですよ。食べて命を奪って、おまけにそのご馳走を汚いウンコに変えたのは自分自身ですよネ。そのウンコが出た途端、まっ先にやって来てウジまで産みつけ、親子でせっせと食べて始末してくれるのがハエじゃないですか。ハエこそはウンコ分解のトップランナーです。そんなありがたい虫に対して、自分の責任を棚上げするだけでなく、汚らしい虫だと見下すなんて。あなたはハエ以下じゃないですか! みんなが正しいと思っている常識や良識なんて、こんなものなんです。」
 「ウンコは良識の踏絵」では、まずは糞の字の意味に始まり、俳句では糞を「まり」と読むことから、糞イコール丸。牛若丸や船の名前を通して、糞(丸) の本当の素晴らしさを力説する。そして、削除要望で人名漢字から糞の字を葬り去った「良識派」に対し、「糞の意味も実態も知らず、臭い汚いという感情だけで糞を悪者にでっちあげ、抹殺してしまう良識というものの横柄さ。今この社会にはびこっている良識の多くが、じつは無知と無責任と傲慢の塊ではないか。」と、厳しい非難を浴びせる。さらに、先の「いただきます」で追い討ちを掛け、感謝の念さえ血祭りにあげてとどめを刺す。

●ウンコで鍛える本物の良識
 なんてイヤミな奴だろう、と自分自身でも思う。しかし、すっかり体に染み付いたエセ良識は、なまじの批判などでは洗い落とせない。安倍ゴジャッペ政権で日本社会がメチャクチャになるか、西洋文明の暴走で地球環境が崩壊するかという瀬戸際で、隠やかな言葉なんかで歯止めがきくとは思えない。
 私の批判は、エセ良識を叩きのめすのが目的ではない。上辺だけの良識でも、必ず本物に変えられると信じているからこそ、あえてその胸元にグッサリと痛いトゲを突き刺すのだ。そして、その痛みこそが、本物の良識に生まれ変わるための産みの苦しみになるのだ、と私は考えている。
 その材料として、ウンコに勝るものはない。例外なく全ての人にウンコは密接に関わり、食と共に生きることの最も基本にある。そしてウンコに向き合うことが、自分の生きる責任に向き合うことになる。本物の良識に欠かせない「責任」を鍛えるのに、ウンコほど適切で素晴らしいものはないのだ。
 ウンコの先、にみんなが責任感を持ってしっかり生きる、明るい未来が見えて来ませんか?

-----
*1 「フンド坊のひと言メッセージ」は糞土研究会会報で連載しています。