便論糞ぷん

先住民宣言

[便論糞ぷん]

posted on 2015.09.16

糞土師:伊沢 正名 (茨城)

■ノグソの犯罪性
 糞土講演の後の質疑応答などでよく出る意見に、ウンコ自体の価値は認めてもノグソという行為に対しては、社寺林など聖域とされる場所だけでなく他人の林(土地)ですることへの是非がある。
人の集まる公園などで野糞をすれば軽犯罪法に触れるが、その場合は千円以上一万円未満の科料(罰金のようなもの。ちなみに正規の犯罪では罰金と言い、それは一万円以上)を払えば免罪される。むしろ、汚物とみなされたウンコをトイレや処理場などで正規に処分しないことへの廃棄物処理法違反や、他人の土地に無断で入り込む不法侵入罪、そして野外で尻などを剥き出しにする猥褻物陳列罪などの方が重い犯罪に問われることになる。
 そしてまた、ノグソの真の目的は食べて奪った命を自然界の生き物に返すことなのだが、その崇高な理念を理解する人は少ない。
 つまり現在のこの法治国家においても、ノグソ自体の違法性は非常に低いのだが、無理解な人々、特に自分は良識があると自負している人々の思い込みにより、ノグソは重大犯罪であるかのように誤解され、非難の対象になっているのが実状である。「命の素の純良肥料を施しているのだ」という糞土師の主張は確信犯としか見られず、それを危惧する見方は糞土研会員の中にすら色濃くある。

■ソーラーパネルの恐怖
 近頃の再生可能エネルギーブームにのって、各地でソーラーパネルの設置が急速に広がっている。我が家にも何度も何度も「使っていない土地はないか」とソーラーパネルの勧誘電話がかかってきた。生き物のいない屋根などに載せるならまだしも、しばしば緑豊かな林を伐り払い、さらにはザックリと山肌を削り取ってすべての生き物を追い出し、無機質なパネルを一面に敷き詰めてゆく。これは地主と業者が合意すれば可能なことで、土地の所有権さえあればそこで何をやっても基本的には自由なのが、この国の現実だ。
 元々その土地で生活している多種多様な動植物や菌類が生み出すエネルギーは、生き物の生存に不可欠な有機物や酸素の生産、雨水の保水や大気の浄化、気候の緩和、死んだ生き物を土に還して新たな誕生につなげる命の再生などなど、それは計り知れないほど豊かなものである。それに比べてソーラーパネルから得られる電力の価値など、いったいどれほどのものだろう。
 ところが、自然のなかで生き物が生み出すそれらの価値はほとんどお金にはならず(金額に換算することはできるが)、その反面、ソーラーパネルの設置やそこから得られる電力は金儲けに直結する。そこに、欲に目がくらんだ人間が陥りやすい落とし穴がある。そして大問題なのが、地主一人の判断でそれが実行されてしまうことだ。
 土地の所有権というのは、言うなれば悪魔に心を売り渡して手に入れた恐ろしい権利ではないか。そして多くの良識ある人ほど強く、この悪魔の権利を遵守すべきだと信じていることが悲劇だ。
 「糞土師が闘う相手は良識だ」としばしば私が言っているのは、「人の命は地球より重い」などとのたまい、人間以外の生き物の命も価値も無視し、希望や夢などという言葉で自分たちの目先の欲望を美化して突っ走る人間中心主義への批判なのだ。人権も良識も遵法精神もそれ自体はすばらしいことだが、守るべきものの本質をきちんと見極めておかなければかえって悪い結果を招きかねないだろう。

■土地の所有権
 土地の所有権というのはいつ頃生まれたものなのだろう。ウンコ以外のことになるとさっぱり知識のない糞土師なので、これから書くことに誤りがあるかもしれないが、そこは大目に見ていただき、言わんとする中身を汲み取ってもらえればと願っている。
 少なくとも縄文人やアイヌなど狩猟採集を生きる糧としていた先住民の世界には、たとえば部族間の縄張りのようなものはあったとしても、個々人の土地の所有権という概念は無かったのではないかと思う。彼らにとっては自然(大地)から得られる幸こそ最も大切なものであり、それ以上に彼ら自身が自然界の一員であっただろう。もし仮に、先住民の生き方が自然との共生ではなく寄生的なものであったとしても、宿主を絶やしてしまっては元も子もないし、そもそも道具しか持っていなかった彼らにそんな力はなかったはずだ。
 ところが、より強い力(文明)を持ったヨーロッパ人がアメリカインディアンやインカ帝国などを侵略し、この日本においては我々大和民族がアイヌや琉球王国などに攻め込んで、土地を奪い、生活文化を破壊し、さらには言葉(心)まで奪い去って、現在に至っている。土地さえ手に入ればそこに存在するすべてが我が物になり、何をしようが自由だという侵略者の勝手な理屈が権利となって、いつの間にか文明社会にそれが定着してしまった。近頃問題になっているアイヌや朝鮮などの人々への口汚いヘイトスピーチや、植民地支配同様に米軍基地を沖縄に押し付けて恥じない我ら大和民族が作り出した安倍政権なども、その現れのひとつだろう。そんな中にあっても、同じ人間である先住民や被差別者に対しては、その罪を自覚出来る良識人は大勢いる。しかし人間以外の生き物や、さらには命を育む土台となる土や水や大気などに対しては、相手の立場に立ってまともに対応できる人がどれだけいるだろう。

■糞土師の新たな覚悟
 残念ながらかく言う私自身も、この文明社会に産まれ、生きてきた人間の一人であり、そこから逃げることはできない。しかし糞土師になったお陰で、良識人に無視され足蹴にされる中で、虐げられる者の気持ちが、そして良識というものの実態がかなりはっきり判るようになってきた。人間であることをやめられないのなら、せめて傲慢な文明人ではなく、自然と共につましく生きる先住民的な生き方をしたい。そしてさらに、この人間社会の一員として生きてきた責任から、これまで虐待してきた人間以外の生き物(自然)にまともに顔向けできるよう、人間社会の進む道を、自然との共生を目指す方向に変えることに全力を出し切りたい。
 私は今ここに、現代の文明人をやめ、先住民となることを宣言します。

ウンコが未来をつくる

[便論糞ぷん]

posted on 2015.02.08

糞土師:伊沢 正名 (茨城)

●黙ってはいられない
 秘密保護法に集団的自衛権、辺野古新基地建設、武器輸出、原発再稼働、カジノ解禁、リニア新幹線…権力と金の亡者のやりたい放題が続いている。おまけに、ジャーナリズムの多くまでがその尻馬に乗り、ヘイトスピーチは止まず、行政や公共施設は平和を求める声を締め出し、社会全体が急速に危険な方向に進んでいる。この卑しい人間性はいったいどこから来ているのだ? もちろん、デモや声明を出したりして、それらに反対する人々も大勢いる。それは理性と欲、あるいは善と悪との闘いなのだろうか?
 前々から私も反原発の金曜デモに参加したいと思いつつなかなか叶わなかったが、嫌な流れがここまで加速してくるとじっとしてはいられない。昨年11月末に水戸で行われた「特定秘密保護法反対」デモを皮切りに、「原発再稼動反対・国会大包囲」「安部政権ストップ」「集団的自衛権反対」などのデモに加わった。だからと言って、これで社会人としての責任を果たしたとか、問題解決につながるとは思っていない。ただ黙り込んで、権力や金の亡者どもをこれ以上のさばらせ、社会をぶち壊されたくないからだ。

●正義ではなく、責任で闘う
 善悪とか正義とは、いったいなんだろう。何を基準にしてそれを判断するのだろう。金や力が好きな者には金や権力が正義であり、戦争するのも原発再稼働も悪いこととは考えていない。自分の好きなものが善であり、嫌いなものを悪と決めつけて排除し、叩き潰すのが正義だ。だから戦いは、善と悪というより、互いの正義と正義のぶつかり合いになる。
 正義の人に自分の正義を説いたって始まらない。それは押し付けになるだけだ。だから私は正邪善悪で物事を判断するのを止めることにした。では、何を基準にするかといえば「責任」である。戦争や放射能汚染・環境破壊など良いはずがない、と考えるのはまともだが、それ以上に金や権力を欲する者が大勢いることも事実だ。欲に比べたら、理性など弱い存在でしかない。欲に流されるのをこらえ、理性を守るために必要なのが責任感だろう。
 糞土思想の根っこにあるのも「責任」だ。他の生き物を食べて命を奪い、ごちそうを汚いウンコに変えて生きている自分自身の責任に向き合い、その責任を果たすために命を返す。その究極の方法がノグソなのだ。そこには小難しい屁理屈や知識はいらない。戦争や原発問題でも、その結果にしっかり責任を取れるのかを推進派に問い詰め、言い訳の屁理屈を許さない強い気概を持つことだ。理論も大切だが、それ以上に「責任」を前面に押し出して、今の私は闘っている。

●トイレが未来をつくる?
 先日の南会津の講演会で、小学生の子どもを連れて参加した母親から『トイレが未来をつくる』という絵本があると教えられた。
 世界中には今でもトイレが無い不衛生な生活を送っている人々が大勢いる(人口の1/3とも言われている)。そうした地域にトイレを作って病気や死を遠ざけ、健康で明るい未来をつくろう、という内容なのだろう。いかにも良識ある人が考え、そして納得しそうな話だが、その場で糞土師の口を突いて出た言葉は「そんな絵本は糞書(焚書)にすべきだ!」
 それがやさしさや思いやりから出たものであることは百も承知だし、そのやさしさ自体を否定する気はない。しかし人が、特に現代人が生きるために、他の生き物や自然にどれほどの犠牲を強いているのか。そしてそれが、将来どんな結果をもたらすのか。そういう視点が完全に欠落しているのだ。
 この限られた地球上にすでに70億の人々がひしめき、今世紀末には100億に達すると言われている。それだけの人口を養う食糧や資源を安全に確保し、さらに人間活動から排出されて環境を破壊する大量のゴミ問題を解決できるのか? それなのに、西洋科学や医学の進歩が招いた異状な人口増加を、更に加速させようというのか。古代文明の滅亡を引き合いに出すまでもなく、それは地球上の陸地全体を砂漠化させかねない、破滅への暴走だ。そのエネルギー源が、夢や希望、発展、さらには人類愛などという良識の中にある。まさに「人は善をなさんとして悪をなす」ではないか。
 この傲慢で目先だけの人間中心主義は、しかしながら「やさしい愛」でもあるから、ヘタに批判しようものならたちどころに、「お前こそ冷酷なヤツだ」と徹底的に非難されかねない。良識の怖さと危険性である。
 その翌日に講演した早大学園祭では、講演後の話し合いの中で一参加者から、「私は倫理感があるのでノグソはできない」と言われてしまった。私には倫理感が無いというのだろうか? そうではない。奪った命を返さなければ、という倫理で私は毎日ノグソをし続けているのだ。時間がなくて、その人の倫理の根底にあるものを尋ねられなかったのは残念だが、ここでもやはり良識のいかがわしさを疑わずにはいられなかった。

●本物の良識とは
 だからこそ良識は、うわべだけではない「本物の良識」に昇華しなければならない。では、本物の良識とはどんなものだろう。私が考えるのは、常に責任が伴っていることだ。その責任は、己を滅して、相手の側に立ってみれば見えてくる。たとえば、食事の前の「いただきます」。
 食は命を頂くことで、食べる相手にどんなに感謝したところで、それは食べる側に立った自己満足のきれいごとではないか。自分が食われて命を奪われる側になってみれば、いくら感謝されたって食われるのはイヤだ。ではどうするか。感謝の気持ちや言葉で自分をごまかし、納得するのではなく、食べて命を奪ったことへの責任をとればいい。それが、奪った分の命を返そうという『ノグソは命の返し方』なのだ。
 そしてもう一つ、本物の良識人に欠かせないのが自己否定できることだろう。何事にも完全は無い。間違いや足りないものが必ずある。それを放置したまま良い面をどんなに伸ばしても、本物にはなれない。欠点に気付いたらそれまでの自分を否定し、改めることは欠かせない。
 私事で恐縮だが、菌類と隠花植物という狭い分野にすぎないが、一応写真家として認められる存在になったし、日本だけでなく世界でも通用するという自負もあった。それを捨てて、つまり否定して糞土師になったのは、そこに大きな欠陥、つまり写真で訴えることの限界を見出したからだ。そのことで以前のキノコ関係などの仲間からは、「我々を捨ててウンコの世界へ行ってしまった裏切り者」などと非難され、人間関係の大半を失ってしまった。それでも本物に一歩近付けたことに、私は大きな悦びを感じている。その一方で新たな「仲間」に出会うこともできたし、予想外の面白さも発見し、今では糞土師活動が楽しくてたまらない。

●闘う相手はエセ良識
 私は今、小池桂一さん(フンド坊のひと言メッセージ連載中! *1)の素晴らしいマンガと、管啓次郎さんの文による『野生哲学・アメリカインディアンに学ぶ』(講談社現代新書)を再読している。アメリカインディアンには「七世代の掟」というものがあり、何事かを決定するにあたっては七世代先までの影響を考慮するのだという。なんという謙虚さと責任感、そして深い洞察力なのだろう。
 その対極にあるのが、目先の利益に振り回され、見境もなく何にでも手を出す現代文明人の軽薄さだ。それはひとえに、自然に依拠して生きてきた先住民の文化と、自然を征服して豊かさを手に入れようとしてきた西洋文明(西洋哲学)との根本的な違いにあるのだろう。自然を征服しようと考えた時点で、夢や希望は傲慢と一体化し、本来は素晴らしいものであったはずの良識までが、欲望をスマートに見せるための道具にされてしまったのではないか。今の私には、つくづくそう思えてならない。

 平気でウソはつく。人の意見も聞かず、質問ははぐらかし、批判には逆ギレする幼稚さ。立憲主義のイロハも理解できず、我こそは最高責任者であると、やりたい放題のゴジャッペ(箸にも棒にも掛からないどうしようもない奴、という茨城弁)総理にひっかき回されながら、まともに対応できない日本社会の腐れかけた良識。物が腐るのは土に還るために重要だが、良識が腐るのは最悪だ。近頃の糞土講演会では必ず、いかがわしい良識批判をやることにしている。こんなふうに…
 ハエが何匹もたかったウンコのスライドが映し出された時に、緑色に光るキンバエを指し示し「このハエがきれいだと思う人、手を上げてください。」たまにまばらに上がるだけで、ゼロのことが多い。「では、ハエは汚い虫だと思う人は?」多くの手が上がる。「こんなに美しく光り輝いているのに、どうして汚いんですか? それは、ウンコにたかるからでしょう?」みんなうなずく。「でも、汚いのはウンコの方ですよ。食べて命を奪って、おまけにそのご馳走を汚いウンコに変えたのは自分自身ですよネ。そのウンコが出た途端、まっ先にやって来てウジまで産みつけ、親子でせっせと食べて始末してくれるのがハエじゃないですか。ハエこそはウンコ分解のトップランナーです。そんなありがたい虫に対して、自分の責任を棚上げするだけでなく、汚らしい虫だと見下すなんて。あなたはハエ以下じゃないですか! みんなが正しいと思っている常識や良識なんて、こんなものなんです。」
 「ウンコは良識の踏絵」では、まずは糞の字の意味に始まり、俳句では糞を「まり」と読むことから、糞イコール丸。牛若丸や船の名前を通して、糞(丸) の本当の素晴らしさを力説する。そして、削除要望で人名漢字から糞の字を葬り去った「良識派」に対し、「糞の意味も実態も知らず、臭い汚いという感情だけで糞を悪者にでっちあげ、抹殺してしまう良識というものの横柄さ。今この社会にはびこっている良識の多くが、じつは無知と無責任と傲慢の塊ではないか。」と、厳しい非難を浴びせる。さらに、先の「いただきます」で追い討ちを掛け、感謝の念さえ血祭りにあげてとどめを刺す。

●ウンコで鍛える本物の良識
 なんてイヤミな奴だろう、と自分自身でも思う。しかし、すっかり体に染み付いたエセ良識は、なまじの批判などでは洗い落とせない。安倍ゴジャッペ政権で日本社会がメチャクチャになるか、西洋文明の暴走で地球環境が崩壊するかという瀬戸際で、隠やかな言葉なんかで歯止めがきくとは思えない。
 私の批判は、エセ良識を叩きのめすのが目的ではない。上辺だけの良識でも、必ず本物に変えられると信じているからこそ、あえてその胸元にグッサリと痛いトゲを突き刺すのだ。そして、その痛みこそが、本物の良識に生まれ変わるための産みの苦しみになるのだ、と私は考えている。
 その材料として、ウンコに勝るものはない。例外なく全ての人にウンコは密接に関わり、食と共に生きることの最も基本にある。そしてウンコに向き合うことが、自分の生きる責任に向き合うことになる。本物の良識に欠かせない「責任」を鍛えるのに、ウンコほど適切で素晴らしいものはないのだ。
 ウンコの先、にみんなが責任感を持ってしっかり生きる、明るい未来が見えて来ませんか?

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*1 「フンド坊のひと言メッセージ」は糞土研究会会報で連載しています。

野糞は野蛮か最先端か

[便論糞ぷん]

posted on 2014.07.08

 糞土思想の核心は「野糞は命の返し方」。しかし、野糞自体は野生動物と同じ排泄方法である。現在の多くの水洗トイレ派にとって、それは不衛生ではしたない、野蛮な行為と映るにちがいない。
 つい最近も私の講演を聴いた某最高学府の教授から、「野糞の意義はわかるが、衛生問題を解決しなければだめだ。」と否定された。私にしてみれば、そもそも何のための衛生なのか? むしろ、不衛生→淘汰→生き物社会の健全化、という議論をしたかったのだが、上品な会食の席だったために遠慮した。

 地球温暖化による異常気象の多発や多くの生物の絶滅危惧など、環境破壊は益々深刻化し、自然との共生は人類の最重要課題になった。しかし我々人間は、真の共生に向き合おうとしているだろうか。
 命の素(有機物と酸素)を植物に依存し、菌類に後始末をしてもらってはじめて、動物は生態系の中で共生していける。その動物の中で唯一共生の環から外れているのが人間で、他の動物との決定的な違いが、野糞をしているか否かなのだ。
 人類が自然と共生するには、先住民的な生活が理想であり、『糞土研究会会報 ノグソフィア』で安田陽介さん(糞ドルネーム:糞坊主)が連載中の縄文人やアイヌの生き方に学ぶところは多い。ところが縄文人もアイヌも、ウンコは命を返す神聖なものではなく、汚れと捉えていたのだ。私自身も昨秋の青森で、白神山地のマタギの貴重な話を聴くことができた。しかしそこでも、マタギは水を汚さないように沢から離れた所にスノ場(便所)を作り、神の通る道だとする山の尾根筋では決して野糞をしない。それでも彼らは自然と共生できたのはなぜか? 豊かな自然の中で生活していたからこそ、たとえ便所にしたウンコでもきちんと土に返ったのだ。
 それに対して今の人間社会の衛生観念は、ウンコを焼却処分して灰にしなければ気が済まない。そこには自然への感謝も信頼も、まともな英知もない。それでいて偉そうに共生を言う横柄な態度に、人間社会の一員として私は本当に恥ずかしい。

 糞に対する無知と無責任と傲慢さに、人間社会にはびこる良識のいかがわしさを訴えた「ウンコは良識の踏絵」を書いてから5年になる。この間ほんの数名だが、この人こそは本物の良識人だと判断したジャーナリストや政治家、映画監督などに、糞土思想の資料や本を添えて手紙を差し上げた。その結果は、ことごとく無視され、返事は来なかった。
 変な趣味ではなく、生きる責任や命を返すことをしっかり伝えたつもりだが、とにかくウンコや野糞というだけで、まともに相手にしてもらえない。
 いや、実は唯一の例外として、講演を聴いてもらえた某村長から、自己紹介を兼ねて同封した本(元写真家としての)へのお礼が、あることはあった。しかし肝心のウンコに関しては、一切触れてこない。それでなくてもクレーマーの餌食になりやすいウンコ問題だけに、個人としてではなく公の村長としての立場から、大きなためらいがあったのだろう。と解釈して、残念だがそれ以上の無理強いは諦めた。
 ところで、それらの方々を選りすぐりの良識人と見込んだ判断材料は、環境や平和、人権、食と命など、ごく普通に議論されるものばかりで、ウンコ関連の発言などは一切含まれていなかった。やっぱりウンコは、はるかにレベルの違うタブーなのだ。
 以前の私ならその結果に、「その程度の良識だったか」で終ってしまったかもしれない。しかしそれでは相手に失礼だし、自分自身にとっても悲しい。信頼できる人がいなくなってしまうのだから。そこでようやく、糞土思想のとんでもなさに気が付いた。

 無学な私は確かな事は知らないが、以前から自然葬や宗教の中には「命を返す」という概念があったと思う。しかしそれは「死によって命を返す」というものであり、「生きながら命を返す」という思想は無かったのではないか。ところが糞土思想には、一切の犠牲がない。生きているままで、不要になったウンコで、しかも楽しみながら命を返すという、ある意味とんでもない考えであり、行為なのだ。糞土思想は現代の地動説だったのだ。
 コペルニクスが唱え、ガリレオ・ガリレイが明らかにした地動説。それは自分たちの地球を中心にして、周りを太陽や星が回っていると皆が信じて疑わなかった天動説の時代になされた、真理の大発見だ。しかしそれは称賛されるどころか、とんでもない奴だと迫害され、ガリレイは宗教裁判にかけられた。下手をすれば火あぶりの刑だろう。

 糞土思想は野蛮どころか、これからの人間の生き方の指針となるべき最先端の考え方だろう。それなのに理不尽にあしらわれるところなど、まるで天動説の時代の地動説と同じではないか。その時代の常識・良識を翻すことの難しさは、当然のこととして受け止めるしかない。あせらず怒らず絶望せず、地道に糞土師活動を続けていこう。少し気持ちが楽になり、新たな決意が湧いてきた。

続・ウンコになって考える

[便論糞ぷん]

posted on 2013.04.05

 『ウンコになって考える』を書いてから2年になる。その間に生き方や死に関わるいろいろな考えを知り、私自身も経験を重ねて思索を巡らしてきた。その思考はまだ半ばにあり、まだまだ深めなければと考えているが、一度この辺で提示してみることにした。

◆ 死にそこねる
 8月24日、飯能でのマイスター講座を済ませ、池袋へ出て編集者と出版の打ち合わせをした帰り道、駅から家へ向かう夜道で私は死にそこなった。
 人っ子一人いない広い歩道がありながら、殊勝にも道交法を守って車道の左端を自転車で走っていると、前方に路上駐車している車に気が付いた。その時、後ろから車のライトが迫ってきた。自転車を止めてやり過ごそうか、それともさっさと前方の車を越してしまおうかと迷っているうちに、突然背後から強烈な衝撃を受けて私は宙に舞った。何がなんだかわからないうちに、体は仰向けになって固い路面に落っこちていた。
 道端にいた目撃者の通報で、間もなく救急車とパトカー2台がやって来た。しかし、自転車はひん曲がってダメになったものの、体は奇跡的に、左腕をほんのちょっぴり擦りむいただけだった。たった1枚の小さなカット絆を貼るためだけに来ることになってしまった救急隊員に、思わず私はゴメンナサイをしてしまった。
 合宿形式のマイスター講座に合わせて、寝袋や着替えなどが詰まったザックを背負っていたのが幸いし、それが強い衝撃を吸収してくれたのだ。だが、体がもっと回転して頭から落下していたら・・・

 そんな死と隣り合わせの危機一髪を体験したにもかかわらず、その時もその後も、恐怖心はまるで感じなかった。それどころか有り難い体験をさせてもらったと、むしろ感謝の気持ちすら湧いてきた。
 ウンコになって考えるとは、一つの死生観であり、「ウンコ」イコール「死」なのだ。ウンコになるということは、死を受け入れるということに他ならない。昨年の3.11大震災でも、もしもぐっすり眠っている時に地震が来たら、という仮定での死は想像したが、今回の事故は正に、死に直面した現実の出来事だった。そんな状況下で死を怖いと感じなかったのが、たまらなく嬉しかった。私もいよいよ、本当にウンコになってきたのだな、と実感することができたのだ。

◆ 生きるということ
 生きていくには、身体を作り、活動するエネルギーを生み出す栄養を得なければならない。そのために食べる肉魚、野菜穀物・・・それらはすべて動植物などの命ある生き物なのだから、生きるとは、他の命を奪って自分の命にすることだ。
 そして、食べて出来上がった物がウンコと肉体だ。ウンコは食物の残りカスの死物であり、肉体も死ねばウンコと同じカスになる。しかしどちらも、本来の自然の中では他の生き物に食われて、それらの命になって蘇る。
 ウンコは汚いものとして、死は悲しみや苦しみ、無念、前途のない終わりとして、忌み嫌われ遠ざけられる。しかし見方を変えれば、ウンコと死骸は始末のしかたを誤らなければ、自分が生きるために奪った命を返すための、唯一無二の大切なものだ。
 ちなみに現在のこの人間社会では、水洗トイレに流したウンコは、処理場で最後は燃やして灰になり、死骸も火葬で灰になる。「食」という生き物から始まる我々人間の「生」は、他の生きものに命を返さずに、わざわざ石油などの資源を浪費して、灰という「死物」になって終わっている。

 食事の前に手を合わせ、「いただきます」と言う人は沢山いる。そしてそれが「命をいただきます」という意味だと知っている人も多い。しかし私はそれを、半分空しい気持ちで見聞きしている。
 食べ物への感謝を心の中で念じ、口に出して言ったところで、いったい何を実行しているというのだ。口先だけの自己満足ではないか、と。命を奪ったなら、命を返したらどうなのだ。おいしいご馳走を臭くて汚いウンコにしてしまったなら、きれいに浄化したらどうなのだ。死んで役目が済んだ死骸なら、土に返してこそ本当の感謝ではないのか、と。
 生きること、すなわち食べて出すこと、つまり食べ物とウンコの実態を、正しく理解している人は残念ながら非常に少ない。そして、生きることへの欲や権利はさんざん主張しても、そのことへの責任を自覚している人は、これまた少ない。その一方で、ウンコや死(死骸)を汚らわしい忌み嫌うべきものとしてタブーに包み、遠ざけて平然としているだけでなく、それを他人にまで押し付ける人が大勢いる。この人間社会で皆が正しいと信じて疑わない常識や良識は、最も大切な命の基本である「食」と「ウンコ」と「死」に関して、実は、無知と無責任と傲慢で凝り固まっているのではないか。

◆ 死について考える
 死骸もウンコも同じ死物というだけでなく、生態系の中で循環する物質として見れば、他の動物に食われ、菌類に分解され(食われ)て無機物になり、さらにそれは植物に吸収され(食われ)て消滅する。しかし食われる度に、それらの生き物の体となり、エネルギーとなって活用される。いわば命の形を変える、いっさい無駄のない大切なご馳走なのだ。
 我々人間は、生きている限り食べ続け、他の命を奪い続けなければならない。しかし死ねば、もうこれ以上の命を奪わずに済むだけでなく、生態系の循環にきちんと死骸を乗せれば、命を返すことまでできるのだ。
 自分中心に物事を考えれば、生きることは素晴らしいだろう。しかしそれは、他の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。だから私は野糞をし続けているし、死んだら間違っても火葬などされないように、最期に備えた計画も練っている。
 とは言え、生は自己中心で残酷だと否定したり、単に死を美化するつもりもない。人は動物である以上、食べて生きるのは宿命であり、生きる権利でもある。しかし、権利を主張するなら、それに見合っただけの責任を果たしたいのだ。つまり、奪った分の命を返して、バランスを取りたいだけなのだ。

 そしてもう一つ、「死」には「生」を輝かせる素晴らしい効果がある。
 死を見詰めること。それは、事故に遭ったりして何時やってくるかも知れない死に対して、覚悟を決めることだ。その時は、すぐ目の前にあるかも知れない。そう考えれば、無駄に過ごす時間はない。生きている今を大切にして、悔いは残したくない。だからこそ私は、世間の評価も経済的安定もあった写真家を捨てて、もっと大切な事に挑戦したくて、糞土師になった。そして今の私は、写真家だった頃よりはるかに大きなよろこびを感じながら、毎日を送っている。

◆ ウンコになるよろこび
 人は皆、よろこびを求めて生きている。私だってそうだ。責任感だけの重苦しい人生など送りたくもない。講演会などで私の口から最も多く出てくる言葉はウンコと野糞だが、責任という言葉も非常に多い。そして私は、生きる責任を果たすことを最重要課題にしている。ところが私の糞土師活動は、重苦しいどころか、楽しくて嬉しくてたまらないのだ。だからこそ、総数12.200回、連続野糞12年半(現在も更新中)という記録が達成できたのだ。
 糞土講演会での評価の上位には常に、「こんなに楽しくウンコの話をする人に出会ったことはない」という声がある。その一方で否定的な意見でさえも、「軽犯罪法に触れる野糞を、人前でこんなに楽しげに話すとはけしからん!」となってしまう。それくらい、私は楽しさの真っただ中にいる。

 よろこびには二つの種類がある。
 一つは、たとえば食のように、自分が欲するものを得て満足する、「奪うよろこび」。そこには、奪われてマイナスを被る相手がいる。
 もう一つが、愛のように、相手を満足させることで自分もしあわせを感じる、「与えるよろこび」だ。ここでは、自分も相手も、共にしあわせになれる。私が日々実践している野糞も、講演会などで訴えていることも、この与えるよろこびなのだ。そして、食われて消滅しながら生きる責任を果たしてゆくウンコこそは、与えるよろこびを実現する象徴なのだ。
 夢や理想。発展などという耳にやさしい言葉で欲望を覆い隠し、ひたすら追求してきた奪うよろこびは、もうこの辺で止めよう。そして、ウンコに倣って与えるよろこびに転じよう。これが、「ウンコになって考える」ことの真髄なのだ。

ウンコはご馳走

[便論糞ぷん]

posted on 2013.04.05

◎ 生きる基本は食べて出すこと
 光合成を行い、無機物から有機物を作り出す植物。その有機物を食べて生きる動物。そして枯木や落葉・死骸や糞などの、死んだ有機物を分解して無機物に戻す菌類。このようにして植物・動物・菌類は、生態系の循環の中でそれぞれが、生産者・消費者・分解者としての役割を担っている。
 動物だけでなく、植物も菌類も生き物であれば、生きるための栄養を得なければならない。体を作り、活動するエネルギーを得、子孫を残すためにも、食べ物は無くてはならない命の源だ。そして、不要になった残りカスはウンコとして出さなければ生きていけない。食べて出すのは、すべての生き物の生きる基本だ。
 自分の体内に消化器官を持っている動物は、食とウンコの関係がわかりやすい。では、植物や菌類にとっての食べ物とウンコとは、いったい何なのだろう。栄養を得るためのものを『食べ物』、不要になって捨てるものを『ウンコ』と定義して考えてみよう。

◎ 植物や菌類の食べ物とウンコとは?
 光合成は、無機物の二酸化炭素(CO2)と水と光エネルギーを使い、有機物のブドウ糖と水と酸素に変える化学反応だが、実はこれが植物の食事の仕方だ。このブドウ糖を元に、さらに多くの無機物を使って化学反応を繰り返し、炭水化物や脂肪、タンパク質などの複雑な構造の有機物が作られてゆく。また、酸素は植物自身の呼吸にもある程度使われるが、使い切れない大量の酸素は大気中に捨てられる。つまり植物にとっては、CO2などの無機物が食べ物で、余分だから捨てられる酸素がウンコだ。
 菌類のキノコやカビは、細胞が細長い糸状につながった菌糸でできており、酵母やバクテリアは単細胞だ。当然消化器官もなければ、口も肛門もない。菌類は細胞から消化酵素を分泌し、食べ物の枯木や落葉・糞などの有機物を体の外側で消化(分解)し、そこから自分に必要な栄養分だけを吸収する。要らないから大気中に捨てられるCO2や、土の中に取り残される無機物などの養分が菌類のウンコだ。そしてこの菌類のウンコが、植物には欠かせない大切な食べ物になる。

◎ 循環する食べ物とウンコ
 次に、植物・動物・菌類の食とウンコの関係を、生態系の循環の中で見てみよう。
・菌類は動植物の死骸やウンコを食べ、CO2や土中の養分になるウンコをする。
・植物は菌類のウンコを食べて有機物を作り、酸素というウンコをする。
・動物は植物の体とそのウンコである酸素を食べ、菌類の食べ物である正真正銘のウンコをする。
 つまりウンコは自分にとっては不要なカスだが、他の生き物にとっては無くてはならない大切な食べ物だ。AのウンコはBのご馳走になり、BのウンコはCのご馳走になる。そしてCのウンコがAのご馳走になって戻って来る。これが生態系の循環という、一切無駄のない理想的なシステムなのだ。

ソウル講演、ボツになる ~ウンコになって領土問題を考える~

[便論糞ぷん]

posted on 2012.10.01

 10月12~13日、韓国はソウルで予定されていた全6講座のオーガニックガーデンシンポジウム。オーガニック植木屋として活躍する糞土研女王:曳地トシさん夫妻と共に糞土師も講師として招待され、春先には講演が確定していた。そこでの私の役割は、生態系の循環をウンコと野糞で語りつくすこと。いよいよ糞土師も海外進出かと意気込んでいたのだが・・・
 出発を半月後に控え、そろそろ打ち合わせをしなければ・・・と考えていた矢先に、突然シンポジウム中止の連絡が入った。思うように参加者が集まらないということだが、やはり竹島の領有権問題が強く影響しているのだろう。4泊5日の旅の間には、私自身もどこかでこの話題が持ち上がるだろうと考えていた。領土問題と糞土師活動は別かもしれないが、知らんぷりは無責任だし、その時に備えた私なりの思いもあった。竹島だけでなく尖閣諸島でも、戦争前夜のような険悪な声が聞こえてくる。糞土師らしく、ウンコになって領土問題を考えてみたい。

 争いの原因は人間(国家)どうしの欲の張り合いだし、歴史問題をきちんと踏まえて解決を・・・などと言っても、しょせんは人間の欲得の歴史だ。土地も海も、すべての生き物のための生活領域であり、元々そこには国境などはない。だれも住んでいない島(土地)なのだから、どの国も領有権を放棄し(我々日本人は率先してそれを宣言し)、あらゆる生き物のために自然のままにしておくことを提案する。
 もしもどこかの国に領有権が確定すれば、こんどは海底資源の開発などで大きな環境破壊が起こるだろう。むしろどの国も手を出さずに、漁業資源豊かな海域として残し、すべての人が公平に海の幸を享受できるようにするのが良い。国という枠を超えて、全人類と自然が本当に共存できる方法こそ探っていくべきだと考える。

 実はこれと似た様なことを、ずっと前から野糞のたびに考えていた。土地の所有権の問題である。私はほとんどの野糞を、自分の土地ではなく、公や他人の林などでしている。もちろん環境破壊や人への迷惑には充分注意しているのだが、厳密に法解釈をすれば、他人の土地への不法侵入や違法な廃棄物処理などに当たるのだろう。基本的には所有者がすべての権利を有するという人間社会のルールでは、命を返して生きる責任を果たすという行為であっても、犯罪になってしまうのだ。
 権利という言葉は重そうだが、それは人間が人間のために正当化しただけの欲求にすぎないと思う。そして、アイヌやアメリカンインディアン、アボリジニなどの先住民族が大切にしていた、自分たちは自然の中で生かされているという謙虚な畏敬の念は、現在の人間社会にはほとんどない。宅地などのプライベートな場所は別にしても、山野など多くの生き物が生活する自然の中では、所有権による権利の行使よりもっともっと大切なものがあることを、多くの人に考えていただきたいと願っている。

糞土師、死にそこねる ~ウンコになって考える~

[便論糞ぷん]

posted on 2012.09.06

 8月24日、飯能でのオーガニックガーデン・マイスター講座では、前夜からの泊まり込みで受講生の皆さんと交流を深めた。参加者は造園や建築、飲食関係などの他に、介護や福祉に携わっている方もいた。
 死んで腐って土に還るという命の循環では、死の問題は避けて通れない。自然死や自然葬を理想とし、人為的な延命治療を拒否して死を肯定する糞土師の考えは、特に介護関係などからは強い反発があるだろうと思っていた。しかし、なぜかその日の話題の中心は、死を巡るものになってしまった。
 批判を恐れず、死の意義について、ウンコになって考えてみよう。

 人は生きるために、多くの生き物を食べて命を奪うだけでなく、生活全般に亘る物資やエネルギーを得るために自然を破壊し、無数の生物を死の危機に追いやっている。元気で有意義な人生を送るためならまだしも、寝たきりで生きるよろこびも感じられなくなった命を長らえさせるために同様の犠牲を、自然や他の生き物に強いてもいいのだろうか。もちろん、もっと生き続けたいと願う人自身の生きる努力まで否定する気など全くない。しかし、周囲からの命の押し売りには反対なのだ。
 しかもその裏では、だれからも批判されにくい「命」を笠に着た「人権」に守られて、大金を生み出す延命治療が大手を振ってまかり通っている。その一方で、金にならない自然死や、奪った命を自然に返す土葬や鳥葬などの自然葬には残酷や不衛生などのレッテルを貼って遠ざけ、禁じてしまう。金のために命と死をもてあそんでいる、と言っては言い過ぎだろうか。
 ちなみに私は死期を悟ったら、つまり命を返す野糞ができなくなったら、どこかの山中にこっそり穴を掘り、自然死を迎えて朽ち果てるのが願いだ。

 科学や医学などの進歩で豊かで快適な生活が実現し、病や死まで遠ざけて人間社会は発展した、と多くの人は考えている。ところが、その結果はどうだろう。
 すでに70億を超えた人口増加は、食糧危機や資源・ゴミ問題、温暖化などの様々な環境問題、さらには多くの生物種の絶滅や原発の放射能問題に至るまで、地球全体を崩壊寸前の危機的状況にまで追い込んでしまった。
 夢や希望、発展などは明るいプラスイメージで捉えられるが、実は「ああしたい、こうなりたい」という、しょせん欲望ではないか。それを美しい言葉でごまかし、正当化して、欲の限りを尽くして辿り着いたのが、今のこの人間社会の姿であり、自然環境の惨状だ。

 ウンコは、食べ物から必要な養分を取った後の残りカスで死物だが、自然に返せば新たな命の源となる。食べて作り出したものが自分の体とウンコであるならば、死骸はウンコと同じだ。他の生き物から奪った命をお返しして、生きた責任を果たす出発点にあるのが、実はウンコと死なのだ。
 自然の中ではウンコも死骸も、動物・菌類・植物という多くの生き物に食われ、吸収されて消滅しながら、それらの生き物を生かし、新たな命として蘇る。そこにあるのは無念や悲しみではなく、命を返すよろこびであり、生きた責任を果たす大きな満足感だ。

 命の尊厳とは、単に命を長らえさせればいいというものではなく、生きるよろこびを実現するところにあるだろう。また、一つの命を生かすために犠牲になる、他の多くの命に思いを寄せることも大切だ。私の大嫌いな言葉のひとつが、いかにも人権派が好みそうな「人の命は地球より重い」という、一見崇高そうだが、その実他の命を省みない倣慢な人間の思い上がりだ。
 私は何年も前から健康診断を受けていない。早期発見、早期治療は長生きのための手段だ。しかし長く生き続ければ、それだけ多くの命を奪うことになるし、死ぬまでに長い時間があると思えば、あれもこれもとつまらない欲に走ってしまう。むしろ私は、死を受け入れることにした。いつやって来るかわからない死を思えば、無駄な時間はない。今ここで元気にしていても、明日事故に遭って死ぬかもしれない。そう考えれば、生きている今を精一杯有意義に過ごしたくなる。世間の評価も生活の安定もあった写真家を捨てて、偏見にさらされ収入の保証もない糞土師になったのは、最も大切なことをやれるだけやり切って、にっこり笑って死を迎えたいからだ。死を遠ざけようとするよりも、死と真正面から向き合うことで、より良い生き方が見えてきた。

 そんな話をした飯能からの帰り道、駅に着き、自転車で夜道を家に向かっている時だった。後ろから車のライトが迫ってきた。ちょっと危ないなと思った次の瞬間、背後から強いショックにはね飛ばされ、仰向けになって固い路面に落っこちた。道路脇にいた目撃者の通報で間もなく救急車とパトカーがやってきた。とんだ騒ぎになってしまったが、自転車こそ壊れたものの、私自身は左腕をほんの少し擦りむいただけだった。
 マイスター講座は合宿形式で、寝袋と着替えなどが詰まったザックを背負っていたのが幸いした。ぶ厚いクッションがほとんどの衝撃を吸収してくれたのだ。だがしかし、身体が水平ではなくもっと回転していたら、後頭部を打ったり脳天から落下したりして、どうなったかわからない。まさにウンまみれの、糞土師ならではの幸運だった。

 すでに死を覚悟していたからだろうか。その時もその後も、恐怖はみじんも感じなかった。それどころか、偉そうに死について語った直後に起きたこの事故は、口先だけでないことを証明し、むしろ説得力が高まったのではないか、と、ほくそ笑んでいるくらいなのだ。

ウンコの地力・底力

[便論糞ぷん]

posted on 2012.04.09

[3月10日にさいたま市で予定されていた講演『さいたさいたセシウムがさいた』抗議を受けて中止] こんな記事が、同日付の朝日新聞に載った。
講演する予定だった米国人詩人アーサー・ビナードさんは、「花が咲く喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故について伝えたい」と、「裂いた」の意味も込める趣旨だったというが、「福島県民を傷つける」などの抗議が約40件寄せられたという。

またしても上辺だけで槍玉に挙げて非難し、本当に大切なものを潰してゆく“良識派”のいかがわしさを痛感した。不愉快なのは自分自身なのに、福島県民の名を借りてクレームをつけ、己の責任を棚上げする。これは石原都知事などがよく使う卑劣で嫌らしい手法だ。
そしてまた「不快な思いを抱かせたのは申し訳ない」と簡単に批判に屈して中止を決定してしまう、信念のない軟弱な実行委員会もだらしない。当のビナードさんの思いはどうなのだろう。
これでも愛国者の私は、こんな日本人の下劣さを笑われまいかと恥じている。私の愛国心は、日本人の顔に泥を塗らないように、ペルーのクスコまで行きながら、たった一度の野糞のためにマチュピチュ観光の予約をどたキャンしたくらいなのだ。
それにしても、クレームと自粛が病的なまでにはびこる日本社会は、この先いったいどこへ行くのだろう。

「ウンコや野糞などとレベルが低い!」「軽犯罪になる野糞を、得意気に喜々として話すとはけしからん!」糞土講演会でも様々な非難を幾度となく浴びてきた。だから講演会を主催してくれた人などからは特に、あえて反発されるような事柄は避けて穏やかに話すように、助言や注文されることも多かった。私自身もそうした方が良いと考えたこともあるが、程なくその弱腰が誤りであることに気付いた。
ウンコの本質を知らない、自分で出したウンコの責任も感じない、そんな無知で無責任なえせ良識人がのさばるのは、こちらが遠慮して下手にでるからなのだ。
それからは、『食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方』を講演の冒頭から切り出した。食べて多くの命を奪い、ご馳走を臭くて汚いウンコに変えた自分の責任を、良識あるあなた方は自覚しているのか? 生きる責任を果たすとは、どういうことなのか、と。それ以降けち臭い非難をする人は、私の目の前からはいなくなった(陰で何を言っているかは知らないが)。

「セシウムがさいた」の話に戻ろう。
花とセシウム、咲いたと裂いた、それらはすべて自分ではない他者だし、どう捉えどう解釈するかはその人の自由だ。だから無責任に勝手なことが言えるし、傲慢の餌食にもなりやすい。しかしウンコは違う。自分自身の内に密着した責任の塊なのだから、それを突き付けられたら逃げられないし、下手な攻撃もできない。自分自身の生きる基本であるウンコに真正面から向き合うことが、自分の中に巣くっている無責任や傲慢を削り取る最も有効な方法ではないか、と糞土師は考えている。

参考までに、『ウンコは良識の踏絵』『ウンコはご馳走』『2012年、糞土師は・・・①』なども読んでみてください。

ウンコは第三極

[便論糞ぷん]

posted on 2012.01.25

世界の人口は昨年ついに70億を越え、近い将来100億に達するという。食糧は、資源は、ゴミは、環境は、そして人類も含めた全ての生き物の未来は、いったいどうなるのだろう?
縄文人やアイヌなどの先住民のような生活をするならまだしも、ますます多くの資源や食糧を消費する現代人にとって、人口問題は震災や原発事故以上の危機をもたらすに違いない。

人間の生き方は、科学の発展で豊かさを実現したり危機を乗り切ろうとする科学技術派と、自然の摂理に即して生活しようとする自然派の二つに大きく分けられる。
しかし世界の隅々まで便利なものがばら撒かれてしまった現在、本物の自然派は急速に減少し、今や絶滅寸前の風前のともしびだ。その一方で、文明社会の中にあっても、その危うさやいかがわしさに気付き、パーマカルチャーなど、自然に目を向ける動きが増してきたことに救いを感じる。

本来は人も自然の一部。理屈抜きで生活全体が生態系の循環の中に収まっていた。だが、文明を知ってしまった現代の自然派の大部分は違う。少なくともウンコも死体も、己自身を循環の中に置いてはいない。自然の価値は認めていても、そこから自分に都合の良いものだけを得ようとしているのではないか。いわば、つまみ食い自然派だ。自分のための自然利用を越えて、自然との真の共生に参加するのが本物の自然派だと考える。

糞土師活動の趣旨は『食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方』。食は他の多くの生き物から命を奪うが、それは人の宿命であり、生きる権利だ。そして権利を行使するなら、責任が詰まったウンコを生態系に組み込み、奪った命を返すことが共生を実現する方法だ。
科学技術派と現代の自然派に対して、糞土師は第三極として、ウンコ(野糞)派を提唱したい。

第三極とは言っても、対立や攻撃が目的ではない。生態系の循環を実現するという、他の二者に欠落している真の共生を、その象徴である野糞で明確化したいと考えている。
もちろん科学にも自然指向にも優れたものは沢山あるし、糞土師自身もその恩恵を受けながら生きている。この社会が、いまさら原始社会に戻れるはずもない。三者それぞれの優れた面を集約し、権利と責任のバランスがとれた人間社会に変えていきたいのだ。

ウンコはごちそう

[便論糞ぷん]

posted on 2012.01.25

①生きる基本は食べて出すこと
 光合成を行い、無機物から有機物を作り出す植物。その有機物を食べて生きる動物。そして枯れ葉や落ち葉・死骸や糞などの、死んだ有機物を分解して無機物に戻す菌類。このようにして植物・動物・菌類は、生態系の循環の中でそれぞれ生産者・消費者・分解者としての役割を担っている。
 動物だけでなく植物も菌類も、生き物であれば生きるための栄養を得なければならない。体を作り、活動するエネルギーを得、子孫を残すためにも、食べ物はなくてはならない命の源だ。そして不要になった残りカスは、ウンコとして排泄しなければ生きていけない。食べて出すのは、すべての生き物の生きる基本だ。
 自分の体内に消化器官を持っている動物は、食とウンコの関係がわかりやすい。では、植物や菌類にとっての食べ物とウンコとは、いったい何なのだろう。栄養を得るためのものを『食べ物』、不要になって捨てるものを『ウンコ』と定義して考えてみよう。

②植物や菌類の食べ物とウンコとは?
 光合成は、無機物である二酸化炭素(CO2)と水と光エネルギーを使い、有機物であるぶどう糖と水と酸素に変える化学反応だが、実はこれが植物の食事の仕方だ。このぶどう糖を元にして、さらに多くの無機物を使って化学反応を繰り返し、炭水化物や脂肪、タンパク質などの複雑な構造の有機物が作られてゆく。また、酸素は植物自身の呼吸にもある程度は使われるが、使い切れない大量の酸素は大気中に捨てられる。つまり植物にとっては、CO2などの無機物が食べ物であり、余分だから捨てられる酸素がウンコなのだ。
 菌類のキノコやカビは、細胞が細長い糸状につながった菌糸でできており、酵母やバクテリアは単細胞だ。当然消化器官もなければ、口も肛門もない。菌類は細胞から消化酵素を分泌し、食べ物である落ち葉や糞などの有機物を体の外側で消化(分解)し、そこから自分に必要な栄養分だけを吸収する。要らないから大気中に捨てられるCO2や、土の中に取り残される無機物などが菌類のウンコだ。

③循環する食べ物とウンコ
 次に、植物・動物・菌類の食とウンコの関係を、生態系の循環の中で見てみよう。
・菌類は動植物の死骸やウンコを食べ、無機物というウンコをする。
・植物は菌類のウンコを食べて有機物を作り、酸素というウンコをする。
・動物は植物の体を食べ、さらに植物のウンコである酸素を食べなければ命を保てない。そして、菌類の食べ物である正真正銘のウンコをする。

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 つまりウンコは自分にとっては不要なカスでも、他の生き物にとっては無くてはならない大切なもので、AのウンコはBのごちそうになり、BのウンコはCのごちそうになる。そしてCのウンコがAのごちそうになって戻って来る。これが生態系の循環という、一切無駄のない理想的なシステムなのだ。

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