便論糞ぷん

ウンコはごちそう

[便論糞ぷん]

posted on 2012.01.25

①生きる基本は食べて出すこと
 光合成を行い、無機物から有機物を作り出す植物。その有機物を食べて生きる動物。そして枯れ葉や落ち葉・死骸や糞などの、死んだ有機物を分解して無機物に戻す菌類。このようにして植物・動物・菌類は、生態系の循環の中でそれぞれ生産者・消費者・分解者としての役割を担っている。
 動物だけでなく植物も菌類も、生き物であれば生きるための栄養を得なければならない。体を作り、活動するエネルギーを得、子孫を残すためにも、食べ物はなくてはならない命の源だ。そして不要になった残りカスは、ウンコとして排泄しなければ生きていけない。食べて出すのは、すべての生き物の生きる基本だ。
 自分の体内に消化器官を持っている動物は、食とウンコの関係がわかりやすい。では、植物や菌類にとっての食べ物とウンコとは、いったい何なのだろう。栄養を得るためのものを『食べ物』、不要になって捨てるものを『ウンコ』と定義して考えてみよう。

②植物や菌類の食べ物とウンコとは?
 光合成は、無機物である二酸化炭素(CO2)と水と光エネルギーを使い、有機物であるぶどう糖と水と酸素に変える化学反応だが、実はこれが植物の食事の仕方だ。このぶどう糖を元にして、さらに多くの無機物を使って化学反応を繰り返し、炭水化物や脂肪、タンパク質などの複雑な構造の有機物が作られてゆく。また、酸素は植物自身の呼吸にもある程度は使われるが、使い切れない大量の酸素は大気中に捨てられる。つまり植物にとっては、CO2などの無機物が食べ物であり、余分だから捨てられる酸素がウンコなのだ。
 菌類のキノコやカビは、細胞が細長い糸状につながった菌糸でできており、酵母やバクテリアは単細胞だ。当然消化器官もなければ、口も肛門もない。菌類は細胞から消化酵素を分泌し、食べ物である落ち葉や糞などの有機物を体の外側で消化(分解)し、そこから自分に必要な栄養分だけを吸収する。要らないから大気中に捨てられるCO2や、土の中に取り残される無機物などが菌類のウンコだ。

③循環する食べ物とウンコ
 次に、植物・動物・菌類の食とウンコの関係を、生態系の循環の中で見てみよう。
・菌類は動植物の死骸やウンコを食べ、無機物というウンコをする。
・植物は菌類のウンコを食べて有機物を作り、酸素というウンコをする。
・動物は植物の体を食べ、さらに植物のウンコである酸素を食べなければ命を保てない。そして、菌類の食べ物である正真正銘のウンコをする。

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 つまりウンコは自分にとっては不要なカスでも、他の生き物にとっては無くてはならない大切なもので、AのウンコはBのごちそうになり、BのウンコはCのごちそうになる。そしてCのウンコがAのごちそうになって戻って来る。これが生態系の循環という、一切無駄のない理想的なシステムなのだ。

ウンコになって考える ⑤不便は不幸か?

[便論糞ぷん]

posted on 2012.01.09

最新のニュースでは、「原発の寿命は40年」、「首都高速道は老朽化で危険」。
数百年もそれ以上もの長い歴史を経て現存する手造りの建造物に比べ、近現代の工業技術で造られた物の寿命はなぜか短い。しかも危険で、手に余る困った巨大ゴミに成り下がる。これが科学の勝利なのか?豊かさの代償なのか??

前回の「ウンコが出した答え」は、現在使い過ぎてる電力消費を、とりあえず半分に減らすこと。これだけで危険な原発も、よけいな代替エネルギーの開発も必要ないはずだ。
「キツネとタヌキの化かし合い」と言ったが、欲望のままに突っ走るのが原発推進派ならば、欲望をうまくごまかそうとするのが自然エネルギー派だ、とウンコは考える。
とにかく発電自体が環境を破壊し、その設備等が近い未来、とんでもないゴミ問題を引き起こすのは確実なのだから。

「人間は一度手に入れた豊かさや快適さは手放せない」と、信頼していた多くの良識ある人々からも何度聞かされたことか。そして、私の求める自然に即した生き方は、「理想論だ。現実離れした夢物語だ」と否定される。
やってもみないで理想をバカにし、そんな自分を「現実をしっかり踏まえた大人」だと正当化する。ウンコから見たら、それは卑劣で愚かなだけだ。『ウンコは良識の踏絵』に至ったのは2〜3年前のことだが、「良識派」に失望したのは、それよりはるか前のことだった。

長い間馴れ親しんできた便利なものを捨てるのは、私だって不安を感じる。しかし実際にやってみれば、意外に簡単だったり、どれほどの楽しさをもたらすか、間もなく実感できるようになる。実例を一つだけ紹介しよう。
全国を飛び回る写真取材には必要悪と、長年使ってきた車を数年前に手放した。写真家をやめて糞土師になったのが最大のきっかけだが、公共交通は1本の鉄道しかない田舎町では、大きな決断のが必要だった。そこで中古のカブを手に入れ、どうしても必要な時にはカミさんの軽を借りて乗っている。完全に車を断った訳ではないが、今一番の移動手段は自転車で、以前は月平均200ℓもあったガソリン消費量が、今では数ℓに激減した。
身体を外気にさらして走るのは、冬は寒いし夏なら暑い、雨が降れば濡れもする。でもその心地よさは、エアコンかけっぱなしの車内に閉じ籠っている者には理解できないだろう。そして、ひどかった腰痛は改善し、以前よりもずっと体調が良くなった。なによりも、車の維持費もガソリン代もグンと安くなり、写真家時代の数分の一に減った収入でも、不自由なく気楽に生活できている。今思えば、取材費を稼ぐためにも、きつい取材が必要だった。のんびり野山を歩き回って野糞をするのが仕事になるとは、なんて幸せな糞土師なのだろう。

ウンコになって考える ④原発と自然エネルギー

[便論糞ぷん]

posted on 2011.12.08

本来の自然にも危険な放射能はあるが、原発の危険性は桁はずれにひどい。そしてなによりも、原発は人間の欲が造り出したものだ。ウンコは当然、原発を認めない。
福島原発事故で放射能の過酷な危険が現実のものとなって、人々に降りかかってきた。しかしすでに、私も含めた茨城県人は東海村JCO事故の経験があるし、それ以前にも日本人全体が、広島・長崎原爆の悲惨さを知っていたはずだ。
それなのに、次から次と原発が造られてきたのは、なぜなのか?

原爆や原発を造って権力や金を得ようとする者だけでなく、もっと豊かな暮らしを求める多くの人々の欲が、原発を造らせてしまったのではないか。しかもそのことを、安全や発展などというまやかしの言葉で言いくるめ、取り繕い、危うさを指摘する良識の声を踏みにじってきた。戦時中の軍と多くの国民が、こぞって平和主義を弾圧したように。

そして今、地球温暖化で脚光を浴びた太陽光や風力発電など、自然エネルギー開発が脱原発の声に乗って勢いを増している。
この現代社会では、豊かさや利便性、快適さなどを最も手軽に実現する手段として電力が使われている。電気無しではどうにもならない物だらけになってきた。
しかし、このままで本当によいのだろうか?
原発事故直後の電力供給が不安になった時には、あれほど皆で節電に努めたのに、喉元過ぎればなんとやら。今はもう、環境に良い電気自動車だ、LEDのイルミネーションだと、むしろ電力消費をあおり立てている。それらがどう環境にやさしいのだ?インチキにもほどがある。
太陽光パネルや巨大風車を作ったり設置したりするのに、どれだけの資源とエネルギーを使っているか考えているのか?原発も火力もダムも、そして太陽光も風力も潮力も、すべて環境を破壊して電力を得ているのだ。さらに、電気を食う電気自動車でもLED電球でも電線でも、それを作るだけで同様の破壊をしているのだ。

夜遅くまで眠らなくなった人間にはイルミネーションの光が心地良いかもしれない。しかしそれ以外の生き物には、闇も光と同じく欠かせない、極めて重要な生きる術だ。それを乱しておいて、自分だけ気分が良くなって、なにがいやしだ、なにが環境にやさしいのだ。

上辺だけ アホな癒しは いやらしい 復興支援の パンダもそうだ

根本まで見詰め、責任を基本にしたウンコになって考えれば、原発推進派も自然エネルギー派もキツネとタヌキの化かし合いにしか見えない。それとも、同じ穴のムジナか?
では、ウンコが出した答えは・・・また後で。

ウンコになって考える ③ウンコと死を見詰め、生を見極める

[便論糞ぷん]

posted on 2011.12.04

菌類による分解から、死んで腐って土に還ることの意義を知ったのは、まだ20代の時だった。そしてそれは、人生最大の難問、死の恐怖を遠ざけることにもつながった。
写真家として私の最大の仕事になった『日本の野生植物・コケ』では、きつい写真取材で心身共に消耗し、全ての作業を終えた2000年暮れ、ついに私は燃えつきた。しかし完全にカラッポになった心の中は、困難な本作りを成し遂げた喜びと満足感にしだいに満たされ、やがて「もう何時死んでも悔いはない」という想いに包まれた。
その想いは、まだ沢山あった本作りなどの欲をどこかへ追いやり、残りの人生を最も大切なことにだけ費やしたいとの想いに変わっていた。これこそ糞土師活動に方向転換する最大の動機だった。

最も大切なこととは、写真家を目指した時からの目的、腐ることの大切さを広め、生態系の循環に人の生き方を組み込んで、生きる責任を果たすこと。しかし、キノコやカビなどのいわば他者を使っての写真活動では、残念ながら思うような成果は上げられなかった。だからこそ全ての人に直接係わり、絶対に無視できない(無視したい人は大勢いるが)ウンコでの再挑戦に打って出たのだ。

欲は、一つ実現すればすぐに更なる欲が湧いてきて、きりが無い。しかし責任は、果たしてしまえば完結し、後には満足が残るだけだ。何時やって来るかわからない、しかし確実に訪れる死を見詰めることで、欲に振り回されて貴重な時間を浪費するような愚を避けられた。
とは言え、すんなりと糞土師に移行できたわけではなく、しばらくは様々な不安を感じていたことも事実だ。それなりに評価されるようになり、生活も安定した写真の仕事を捨てる不安。なれ親しんだ、便利で快適なものを捨ててゆく不安。これまでの人間関係も失いかねない不安・・・。しかし、より深くウンコを知るにつれ、それらの不安は薄れてゆき、それどころか不便だと思っていた中にも、今まで気付かなかった新たなよろこびまでが、次々に目の前に現れてきた。

そもそもウンコ自体は死物だが、それなのに多くの他者を生かす素晴らしい力を持っている。
ウンコでいいじゃないか!
ウンコを蔑む傲慢な人間の仲間入りなど、願い下げにしよう。
ウンコのように生きて(死んで)みようじゃないか!!

ウンコになって考える ②「ウンコ」になるということは・・・

[便論糞ぷん]

posted on 2011.11.27

コンポストトイレなどを除き、普通にトイレでしたウンコは下水道やバキュームカーなどで処理場に運ばれ、最後は燃やされて灰になる。それに対して糞土師のように野糞をして土に埋めれば、ウンコは生態系の循環に組み込まれて多くの生き物のご馳走になる。
このことに関しては、以前の記事を参照していただきたい。
「ウンコはいかにして土に還るか」 1〜4、2010・03・08〜13
「トイレでしたウンコはどうなる?」 2011・02・04
「生態系の要はウンコ」 2011・02・28

ウンコを土(自然)に還すことは、肥料などで活用して無駄にしないという以上に大きな意味がある。生きるために食べ、そのことで他の生き物から奪ってしまった命を、彼らにお返しすることなのだ。
野糞をすれば、ウンコは他の動物や菌類に食べられ、最後に残った菌類のウンコも植物に食べられて無くなってしまう。しかしそのことで、他の多くの生き物が命を得て行きてゆく。

ウンコになるということは、自分が消えて無くなるかわりに他の者を生かすこと。つまり、これまで自分が奪ってきた命をお返しするという、生きてきた責任を果たすことなのだ。

人間のよろこびには、大きく分けて二つある。ひとつは、自分自身の欲を満たす、つまり他から奪って自分のものにするよろこび。もう一つが、相手がよろこぶ姿を見て自分もよろこべるという、与えるよろこびだ。それは愛に通じるものだが、人間社会の中だけの愛ではなく、もっと大きな、自分を生かしてくれた他の生き物と自然への愛だ。
「責任を果たす」などと言うと、とかくつらくて大変なイメージを持ってしまうが、「ウンコになって考える」のは愛と同じで、大きな満足を得られるよろこびなのだ。

人々はこれまでずっと夢や希望、発展などを求めて生きてきた。たしかにそれらは美しい言葉だが、裏を返せば、ああなりたい、こうなりたいと言う欲望ではないか。それは「食」と同じ、他から奪うことで実現する目標だった。
そして人間が豊かになったことで、他の生き物も自然もボロボロに疲弊してしまったのが、今のこの地球の姿なのだ。

美しい言葉で欲をごまかすのは、もういいかげん止めにしたいと思う。そして、生きる責任を果たすために、ウンコになって考えてみませんか?

ウンコになって考える  ①ウンコは責任

[便論糞ぷん]

posted on 2011.11.24

多くの人にとってウンコは、健康面などで関心を持つことはあっても、しょせん臭い汚物でしかない。なかには肥料や燃料にもなる資源と捉える人もいるが、少数派だ。もちろんそれは非常に大切なことなのだが、単にウンコを物として考えるのでは、少し物足りなさを感じてしまう。
さらに野糞となると、トイレを使えない場合の非常手段にすぎず、むしろ罪悪感さえつきまとってくる。

そんな世の中で、ウンコの大切さや野糞の素晴らしさを広めようなどとは、ある意味とんでもない暴挙かもしれない。それでも、キノコやウンコのスライドを交えたウンコ講演会に来てもらった方々には、それなりに理解されたと思う。しかしその数は微々たるもので、全国規模で見れば10万人に1人か2人というレベルだ。

ウンコと野糞に真剣に取り組んではや38年。写真家をやめて糞土師になってからでも6年の歳月が流れた。この間多くの偏見や批判にさらされ、憤りや無力感にさいなまれることもあったが、むしろそのお陰で糞土師は鍛えられてきた。そして巡り着いたのが、『ウンコになって考える』という考え方、生き方である。その真髄を、これから数回に分けて書いてみたい。初めは、これまでの繰り返しになってしまうが、ウンコの実体について・・・

生きる基本は、まず第一に食べること。その食べ物は、肉魚米野菜・・・すべて命ある生き物だ。つまり食は、他の命を奪って自分の命にすること。さらに、旨くて良い香りの食べ物を、臭くて汚いウンコに変えたのは、他ならぬ自分自身だ。
他の生き物を食べることは、動物である人の宿命だから仕方がない。しかし、命を奪って汚いウンコを生み出したことに責任を持つのは、少しでも良識があるなら当然のことと考えるのだが、皆さんはどう思うのだろう?
生きるとは、食とは、そしてウンコとは何なのだろう。その本質まで考えなかったことが、ウンコへの偏見につながっていたのだと思う。
『ウンコは責任』これがウンコになって考えることの基本にあるのだ。

野糞は神聖な儀式か?

[便論糞ぷん]

posted on 2011.06.21

「ノグソフィア」や「糞土師」の名付け親:小池桂一さんと管啓次郎さんによるすばらしい本ができた。
『野生哲学』アメリカ・インディアンに学ぶ(講談社現代新書)
土地(自然)に根ざして暮らしてきた土着の先住民を蹴散らし、文化を破壊し、土地も資源も略奪して肥大してきた西洋文明。それこそが、環境破壊にとどまらない現在の地球規模での危機を招いた元凶であることが明らかになる。
私の読解力ではなかなか難しい文章でしたが、是非みなさんにも読んでほしいお奨めの一冊です。

そして今、クジラの町:太地町にまで乗り込んで、知能の高いクジラやイルカを殺すな!と、力ずくで正義を振り回す環境団体:シーシェパード。
それに対して、こちらは「食文化論」で対抗するが、アメリカ・インディアンやアボリジニなどの土着民でも、アニミズムでも、バッファローなどと同じように低能・下等なものと見なして平然と抹殺してきた彼ら白人には、カエルの面にションベンではないか?糞土師ならば、「食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方」の糞理屈と、「ウンコは良識の踏絵」を突き付けて戦うのだが・・・

それはさておき、この本を読んでいて糞土師活動は、あらゆる現象や生物に霊魂が宿ってると考えるアニミズムに近いものがあると感じた。アニミズムには、時に生けにえなど過酷なまでの祈りや儀式も伴うが、それは自分たちを生かしてくれている者(神)への、命がけの感謝の表現ではないかと思う。
そういえば、糞土師の日々欠かさぬ野糞も、自然と生き物たちへの全身全霊での感謝とお返しの儀式だ。普段は楽しくて快適な野糞も、真冬の深夜の下痢の時など、まさに命がけに近い野糞が時たまある。もしかしてこれは、そういう事だったのだ。

本物の豊かさを求めて

[便論糞ぷん]

posted on 2011.05.07

前回は風力発電の問題点を上げたが、太陽光ではどうだろう。発電パネルなどの資材の問題に加え、屋根への設置は別としても、大地への日照の悪影響など、いろいろ考えられる。今話題の電気自動車では、そもそも発電する時点でとんでもない環境破壊をしているのだから、CO2を出さないのは車を動かす時だけのことで、それはまったくのまやかしではないか。
石油に替わるバイオ燃料にしても、原料の作物を栽培するために大規模な森林伐採が進んでいる。

環境に良いと言われる様々な代替エネルギーの多くは、実はその裏で、これまで以上の深刻な環境破壊を引き起こしている。ではどうしたら良いのか。答えは単純明快。これまで使い過ぎていた石油や電気などの使用を減らすのが、最も確実で、てっとり早い解決策だ。どうして無駄と欲望を改めようという議論にならないのか、私には理解できない。

本物のクリーンエネルギーを目指すなら、必要最低限の電力を、沢の流れを利用する小規模水力発電とか、ウンコなどを発酵させるバイオ発電などに求めてはどうだろう。
しかしそうなれば、現在我々が享受しているような過度の利便性・快適性は到底望めなくなる。では、不便を抱えながらの窮乏生活を強いられるのかというと、それは違う。この私だって豊かさを求め、喜びがあるから生きているのだ。ただし、求める豊かさの中身が世間の常識とちょっと違うだけで。
あれもこれもと欲しいものを手に入れ、欲望を満たしたり、楽するだけが豊かさなのか?むしろ私はこう考え、そして感じている。心の安らぎ、相手を思いやる愛、それから責任を果たす満足感など、金を掛けず物に頼らず、安上がりで本物の豊かさが、その辺にいくらでも転がっているはずだ。
たとえば私は毎日野糞をする度に、生きる責任を果たした喜びに満たされ、極上の葉っぱで尻を拭く度に歓喜に打ち震えている。
これって生きる幸せだとは思いませんか、皆さん?

風力発電はクリーンエネルギーか?

[便論糞ぷん]

posted on 2011.05.03

福島原発事故でその危険性が明らかになり、これからはクリーンエネルギーと言われる風力や太陽光発電に大きくシフトするだろう。しかし、『原発の安全神話』のように、風力や太陽光にも同様の『クリーンエネルギー信仰』がないだろうか?

風車による野鳥の衝突死や、超低周波音の被害は徐々に知られるようになってきた。しかしそれだけではなく、『発電時にCO2を出さない』という風力発電には、その前後にこれだけの問題があると私は考えている。

●巨大風車は1基造るにも、何百トンもの鉄鋼と莫大なエネルギーが必要
●風車が倒れないように建てるには、何百、何千トンものコンクリートで基礎を固める
●その鉄鋼もコンクリートも、大量の資源を使い、環境を破壊し、そしてCO2をしこたま排出してつくられる
●風車の建設や工事用道路などのために、森林伐採など多くの自然破壊が行われる
●風車が壊れたり、耐用年数を過ぎれば、とてつもない巨大ゴミになる
●風の強さは不安定なため、発電量も、そして電圧も一定せず、ほとんど役に立たないクズ電力しか発電できない
●電力としてはとても採算が合わないが、製造・設置企業は補助金(元々は税金)ががっぽり入るので儲かる。だから風車を建てる
●これらの情報を得ているマスコミは、保身のために本気になって報道しない
●クリーンイメージだまされた住民や環境団体などは、税金も環境も奪われながら、これで環境に貢献し、責任も果たしたと思い込む。そしてこれを後押しする

どうです。違いますか?

ではどうするか

〜つづく

野糞は犯罪か

[便論糞ぷん]

posted on 2011.03.04

講演会などで野糞話をして、最も批判が出るのが都会の公園でする野糞だ。また、新聞やテレビなどで糞土師の主張をを取り上げようとしても大抵はボツになってしまったが、その第一の理由が軽犯罪だ。
野山では良くても、「街路、公園や公衆の集合する場所で大小便をすること」は軽犯罪法違反になる。本音は他にあるようだが、犯罪行為を公にはできない、というのはもっともな話だ。

ところで、この軽犯罪法(軽微な秩序違反行為)は戦後間もない昭和23年(1948年)に制定された。その頃はまだ下肥全盛で、多くのウンコは大地に返っていたし、町中やその周辺にも多くの自然が残っていた。そんな時代なら礼儀作法として、公園などでは野糞はやめよう、というのは私だって納得するし、賛同もする。しかし、時代は大きく変わってしまった。

環境破壊が急速に進み、都市はコンクリートで覆われ、土の見える地面は公園以外では激減した。おまけに人々の清潔指向は病的なまでに悪化して、落ち葉でさえもゴミとみなされて除去される。樹々の茂った公園でも腐植が無ければ、土はやせ細る一方だ。そんな青息吐息の土を元気にするために、都市の公園でこそ野糞が必要ではないか。下肥はどんな味?(2011・2・2)で書いたように、ウンコには土を豊かにする素晴らしい力がある。もちろん、出しっぱなしの汚らしいのや、大っぴらに野糞をするのは私だって大反対だ。正しい野糞をして土に埋めるのが都会の野糞では絶対条件だ。

旧態依然の軽犯罪法は見直して、これからは深刻な資源や環境問題に対応した、「野糞のできる公園造り」や「正しい野糞で森造り」を目指すべきだと考えている。

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