2012年、糞土師は・・・①

[糞土師のひとりごと]

posted on 2012.03.17

 写真をやめ、糞土師になって7年目を迎えました。清潔や快適を良しとするこの社会で、ウンコや野糞への強い偏見と抵抗を覚悟していたとはいえ、予想以上の無理解に困惑してきました。
 まずは話を持ち出すまでが一苦労。テレビや新聞等多くのマスコミでは、ほとんどその機会さえ与えられません。2時間ほどのスライド講演を聴いてもらえば良い手応えが期待できるのですが、それでもまだ思い込みや誤解による批判は残ります。ましてや生の訴えではなく書いたものを読んだくらいでは、糞土師の意思はなかなか通じません。文章の稚拙さも一因でしょうが、ウンコや野糞と聞いただけで頭の中は嫌悪と拒絶が渦巻き、思考を遮断してしまうようです。
 その一方、私自身はこの間ウンコに全精力を注いできたことで、糞土思想は着実に深まってきました。その一部を紹介します。

・食は権利、ウンコは権利、野糞は命の返し方
 生きる基本の食は、他の生き物の命を奪って自分の命にすること。だがそれはヒトの宿命であり、生きる権利。ウンコには、命を奪い、食べ物を臭く汚く変えた責任が詰まっている。しかしウンコを土に還せば他の生き物の栄養になって命が蘇る。
・ウンコは良識の踏み絵
 世の中の多くの知識人は、食とウンコの真の意味を理解し、その責任を自覚しているだろうか。さらに、自分の無知と無責任を棚に上げ、ウンコを軽蔑したり避難したりする傲慢さはないか。ウンコを投げ掛けてみれば、その人の良識の真偽が明らかになる。
・ウンコはご馳走
 単にウンコというだけで、糞土師の話を下世話な糞尿趣味と同列にみなし、安易にスカトロジーだと決めつけて見下す人が多い。私自身も低俗なスカトロは嫌いだが、生き物社会の中で食べ物の実体を突き詰めてみれば、生態系こそは本物のスカトロジーだった。我々人間さえも、ある種のウンコを食べなければ生きていられないのだ。
・ウンコになって考える
 カスで死物だと思っていたウンコは、自然の中では動物に食われ、菌類に分解吸収され、最後に残った無機物さえ植物に吸収されて消滅する。しかしそれは、他の生き物に命を手渡すこと。生きる権利を主張し、豊かさを手に入れることもよろこびだが、権利は正当化された(誰が正当化したのか?)欲望に過ぎない。それに対して死は(火葬なんてもっての外)ウンコと同等に単なる終末ではなく、生態系の中で他者に命を譲り、生きた責任を果たすこと。ウンコにならって考えれば、生死観も含めて、理想的な生き方や、本物のしあわせが見えてくるに違いない。

 近頃だいぶウンコになってきた糞土師は、“ウンコで世直し”的な気負いも薄れ、無視されるのも平気。さらにはアナーキストやスカトロジー、ウンコ原理主義などの批判的な言葉さえ納得して受け入れ、かえって肥やしにできるようになりました。
 水洗トイレで排泄し、ウンコの処理に莫大な資源とエネルギーを浪費し、最後は大量の重油で燃やして灰にする。環境を破壊し、命を返さず、平然とふんぞり返っている世間の良識人?が、野糞を汚らわしい犯罪行為だと避難するなんて、とんでもないお門違いです。
『場所選び、穴を掘り葉で拭き、水仕上げ。埋めて目印、年に一回』これが糞土師流正しい野糞です。命を大地に還すだけでなく、自然にも他人にも迷惑をかけない、やさしい野糞法です。特に葉っぱ野糞は、排泄の概念を破る楽しさ、気持ち良さ、満足感に満ち溢れ、加えて人々の価値観や生き方まで考えさせられる目からウンコの講演活動は、まさに生きるよろこびいっぱいの充実した毎日です。

続く

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