2013年 糞土師の新たな決意

 「歴史にはこう記されるだろう。この変革の時代においてもっとも悲劇的であったのは、悪人たちの辛辣な言葉や暴力ではなく、善人たちの恐ろしいまでの沈黙と無関心であったと」 「消極的に悪を受け入れる者は、悪を行うことを助けるものと同様に悪に巻き込まれているのだ」 これは某新聞で最近見つけた公民権運動のリーダー:マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉です。私もまったくその通りだと思います。
 多くの善人は、ウンコや野糞を臭くて汚らしい下品なものとして嫌い、特に公共の場では激しく排除しています。しかし糞はどんなに拒絶されようとも、すべての人々の内にある問題です。人は食べることで多くの生き物の命を奪い、おいしいご馳走を汚いウンコに変えたのは、他ならぬ自分自身です。そして野糞は、不要になったウンコを自然に返して、新たな命につなげる大切な行為です。そのような食の本質を考えず、命とウンコの責任もとらずに、命を返すための野糞を非難するのが、善人の考える良識でしょうか? 私は講演資料のひとつ『正しい野糞のしかた』の片隅に、「人は善をなさんとして悪をなす」の一文を書き込みました。
 善人はみんな悪意はないのですが、物事の上辺だけを見て根本まで見極めず、自分の好みと他人が不快に思うか否か、つまり非難されるかどうかで善悪を判断し、しかもその結果には責任を負いません。悪意がないから反省もしない善人は、かえって厄介です。人が嫌がるウンコを振り撒く善人でない私は、自分で出したウンコの責任を果たそうと考えたら、それまで続けてきた写真家もやめて糞土師になるしかありませんでした。
 そして7年、糞まみれの糞闘は少しづつ芽を出して、公の場でも徐々にウンコが出せるようになりました。昨年は一月末の諏訪市図書館を皮切りに、北海道自然保護協会や国交省管轄の安曇野・烏川緑地公園、鳥取と群馬の県立博物館などでも糞土講演が実現しました。じつは博物館ではきのこ(菌類)展があり、それに写真を提供する交換条件として講演会開催を迫ったのですが、予想以上の参加者があり好評でした。
 今年に入ると1月25日に室蘭工業大学主催、3月10日に釧路短期大学主催の講演会がありました。そして4月29日には茨城県自然博物館のコケ企画展の中で同様に講演を行います。ただし、ウンコとコケはほとんど関連がないという強い反対があり、納得。コケの写真だけでどうやって糞土思想を語るか、新たな挑戦を迫られましたが、よくよく考えてみれば、コケがウンコをしている写真を撮っていました。これだ!
 
 糞土師活動を始めてこの方、世間の良識になじまないウンコや野糞の訴えは、なるべく反発されないように話題を制限し、柔らかく穏やかに話した方が良いのか、それとも率直に本質を語って理解を求めるのか、ずっと揺れ続けてきました。しかし今は、善人にこびて認めてもらうのではなく、認めさせるのだ、と腹をくくりました。昨年は、その決意を促す出来事が束になって降ってきた一年でした。
 ウンコの重要性を理解する上で欠かせない生態系の循環を糞土師流にまとめた『ウンコはご馳走』の完成。病院と介護施設通いが200回を超えた母の介護など家庭の激変に加えて、あわやの交通事故に遭い、まだ先のことだと思っていた人生の締めくくりを真剣に考えた『続・ウンコになって考える』。さらに、3・11大震災であれほど醜い原発事故を経験しながら、安全よりも目先の経済(金)に走ってしまう昨年末の総選挙結果。そして今、原発再稼働やTPP参加(特に農業=食の破壊)、憲法改悪(戦争する国へ)などが現実のものとなる危険が迫っています。安倍政権のもくろみや保身だけの政治家(屋)の行動など充分に予測できていたはずなのに。まさに善人たちの恐ろしいまでの無関心であり、悪に巻き込まれ、破滅への片棒を担いでいます。
 自分は正しいと信じている善人には特に、批判は嫌がられます。しかし批判は、けなしたりおとしめたりするのが目的ではなく、欠点を改めて本物になるためのきっかけです。糞土講演会では『ウンコは良識の踏絵』で、上っ面だけの良識や傲慢な人権派の危うさも批判しています。糞の文字の意味などを元にその根拠を示し、本物の良識・本物の人権を求めているのです。
糞土師活動は野糞の普及などではなく、『食は権利・ウンコは責任・野糞は命の返し方』と、権利と責任のバランスの取れた生き方を提案しているつもりです。しかしウンコの偏見に凝り固まった人の耳にはすんなりとは届かず、陰に陽に多くの批判・非難を浴びてきました。そしてそれが、私の糞度(糞土師としてのレベル)を高めてくれたのです。ビシバシ打たれた愛のムチ。こんな私は案外しあわせ者なのかもしれません。
 善人なんて糞喰らえ! 憎まれ口も遠慮なく叩いてやろうと決意を新たにしています。 

2013年春 糞土師:伊沢 正名