舌が命 - 糞土師最大の危機は乗り切れるか? 第7回
※「糞土研究会 ノグソフィア会報 21号(2015/12/31発行)」の記事を9回に分けて掲載します。
<第7回> 糞土師 がんで活かされる
正月の母の葬儀から始まった2015年。舌がんでの病院通いは入院も含めて50日に及び、痛みをドーパミンとアドレナリンで騙しながらしゃべり続けた講演会は40回、そしてフィールドワークが9回。はっきり言って大変な1年だったが、がんになって良かったとつくづく思っている。
2012年の夏には交通事故であわやの死を経験したが、それは一瞬の出来事で、きちんと死に向き合う時間はなかった。しかし今回は、ネット社会の外にいて情報も最新医療の知識にも乏しい私は、「がん=死」という古めかしい頭のまま、当初は治療も遠ざけ、多分死ぬかもしれないという想いを目の前にぶら下げながら長い時間を過ごすことができた。
死は、次の者に命を渡すための一つの区切りだが、自分自身にとっては将来を失うことになる。もし生きることに絶望しているなら、死はある種の救いになるかもしれない。しかし私は失敗こそ糧になると考えるくらい全てを肯定し、未来にも大きな夢を描いている。『続・ウンコになって考える』(ノグソフィア15号)ですでに死の価値をきちんと捉えたつもりでいたが、これからの夢や可能性などを無にすることは決して望んでいない。もっと生きて、もっと理想に近付きたいという想いは強い。つまり死について、自分自身の中で理屈と本音の闘いをずっとし続けてきたのだ。死を怖くないと思いつつも、言いつつも、決して達観していたわけではない。それが今回の舌がんでようやく、自信を持って『ウンコになって考える』ようになれたのがうれしいのだ。
『食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方』という糞土思想の中心にあるのが、命の循環、つまり命のやりとりだ。いただく命が食であるのに対して、与える(返す)命が死物であるウンコと死骸だ。ウンコと死を受け入れられずに偉そうに命を語ることなど、私にはできない。