’70年代初期、自然保護運動をしていた私は、企業や行政こそが公害や自然破壊を引き起こす悪で、それに反対する住民運動は善だと考えていた。しかし’73年の暮れ近く、『屎尿処理場建設反対』の住民運動を知ったとき、これは変だぞ、と直感した。

ちょうどその頃、簡易水洗トイレが普及した住宅地を流れる小川が、その廃水で急速に汚染されてゆくのを目撃していた。自分の家の中は清潔にしても、自分が出したウンコをどこか遠くで始末してくれとは、ただの住民エゴではないか。死んだ川を見つめながら、私は強い憤りを覚えた。  しかしそんな私自身、我家はまだボットン便所だったが、ウンコの始末を処理場に頼っていては、無責任な加害者であることに変わりはない。自分で出したウンコに責任を持つにはどうしたらよいのだろう。農家ならば下肥として活かすこともできるが、歯医者の息子だった私には、野糞しか方法が思い浮かばなかった。それにしても、その時もし下肥という解決策を手に入れていたら、その後糞土師への道は開かれなかったに違いない。何が幸いするのか、わからないものだ。

年が改まった’74年1月1日、運命のウンコはふるさとの裏山に埋められ、私の新たな野糞人生がスタートした。