常識・良識・人権 そして教育
はじめに
この投稿は2016年12月に発行した糞土研究会 会報 22号の記事です。
ウンコ一色で毎回批判の多い糞土師の記事は、最後まで読み進めるのが辛いという方もおられるかと思います。この記事の最後で糞土師は、「批判でやっつけようという闘いではなく、知って学ぶための教育が重要」と、模索をはじめています。そして今回は、漫画家の小池桂一さんが挿絵を寄せてくださいました。糞土師やノグソフィアの名付け親でもある小池さんは、このサイトのタイトル画像や会報への寄稿など、2006年から糞土研究会を応援してくださっています。
漫画家の小池さんも、写真家からウンコへと転身した伊沢さんも、経済至上主義の観点からは「才能の無駄遣い」と捉えられなくもないですが、お二人とも至って真面目です。この伊沢節を「愛すべき頑固オヤジが仕出かす所業」として見守るつもりで、最後までたのしく読み進め、その真意を汲み取っていただけたら幸いです。
糞土研究会 WEB担当 過過糞(すぎかふん) 前田敏之
常識・良識・人権 そして教育
糞土師:伊沢 正名 (茨城)
良好な社会生活を送るうえで、常識や良識は大切な基準になると考える人は多い。私も糞土師になるまではそうだった。しかし世間一般とは違った視点で物事を捉えるようになると、それまで当たり前と思われていた常識や善かれとされてきた良識の多くが、いかに怪しげなものであったかを至る所で思い知らされることになった。たとえば講演会やフィールドワークで葉っぱ野糞の話をする時に、参加者にこう聞いてみる。枯れ葉でお尻が拭けると思いますか? すると10人が10人まで当然のように、かたくて脆くて拭けません、という答えが返ってくる。皆の認識が一致する「枯れ葉では拭けない」という常識は本当なのか?
夜半の雨があがり、木々の雫が収まるのを待って野糞に出掛けた。道端の木にからみついたカラスウリのツルには真っ赤な実と共に、雨水を含んでしっとりした枯れ葉が沢山垂れ下がっている。程良く表面だけ乾いた葉っぱを採り、2~3枚重ねて2つに折れば、しなやかで厚みも充分。おまけに尻触りもウンコの吸着力も上々で、5段階評価で4以上という素晴らしさだった。
もちろんカラスウリの枯れ葉は乾いていればちょっと握っただけでもシャリシャリ崩れてしまうが、湿気があればいたってしなやかで、若くてやわらかな緑の生葉以上に拭き心地が良い。雨が降れば濡れて湿る当たり前のことを、誰も考えないのだろうか? 湿った枯れ葉に、誰も触ったことがないのだろうか? こんな簡単なことさえ抜け落ちている常識に目が点になる思いだが、呆れてばかりもいられない。
当たり前の常識として一旦頭に入ってしまったものは、単純な事柄であればあるほど「常識だ」と判断したとたん思考停止に陥り、なぜそうなのかを一考することもなく決め付けてしまう。「常識は思考停止」とは困ったものだ。だからこそ根っからのへそ曲がりで、「世間の常識」という正面からではなく、なんでも裏側から批判的に見る糞土師のクソ発言の存在価値があるのではないかと思っている。
良識を辞書で引けば、「健全なものの考え方、すぐれた判断力」とある。ウンコやノグソは常識のレベルではとことん蔑まれているが、きちんとした良識があれば糞土思想のまともさは理解できるはずだ。そこで数年前から、この人こそは良識人の中の良識人と見込んだ何名かに、ノグソフィアや『くう・ねる・のぐそ』『うんこはごちそう』などを添えて手紙を出した。しかし結末は、完璧に無視されるという無残なものだった。良識なんて幻想にすぎなかったのか?
いや、そうではない。本誌18号で「糞土思想は現代の地動説」と書いたように、良識の多くが常識の上に成り立っている現状では、ウンコから紡ぎ出した糞土思想はまだまだ理解不能なのかもしれない。良識人に期待するのは、「食は権利、ウンコはご馳走、野糞は命の返し方」そして「ウンコに向き合うことは、自分の生きる責任に向き合うこと」という糞土思想の基本を受け入れられるかどうかを確認してからのことだと悟った。いずれにしても、ウンコにも向き合えない人に真の良識など期待できるわけがないのだ。
ということで世間にまかり通る良識を改めて考えてみると、その多くは一見やさしそうで物分かり良さそうで、批判されるような要素はあまりない。その一方で、何か悪い問題が起こると最初に出てきたもっともらしい批判意見にみんなで乗って、一斉に正義のバッシングを巻き起こす。そのどちらにも共通して感じるのは、周りの顔色をうかがいながら流れに乗り、仲間はずれにならないようにすること。つまり、きちんとした批判精神が欠落した八方美人的なもので、単なる自己保身の良い子ぶりっこではないだろうか? 「良識は八方美人の自己保身」とは言い過ぎだろうか?
良識の更に上にあるのが、自由・平等・生命など人間として当然保障されるべき権利を守ろうという人権だ。それ自体は気高いものだと私自身も認める一方で、人権派を苦々しく思うこともしばしばある。その一つが、守るのはあくまでも人間の権利であって、人以外の生き物や自然に対する思いが欠けていること。もう一つは、自分たちは正しく崇高なのだという思い上がりが鼻につく押し付けがましさだ。「人の命は地球より重い」とか「人は生きているだけで価値がある」という人権派好みの言葉がある。しかし人一人が生きるために、食べることでどれだけ多くの生き物の命を奪い、生活物資を得るために自然を破壊し、ゴミで環境を汚し、どれほど地球全体の生命を危機にさらしているのか、わかっているのだろうか。
アメリカの動物園で、ゴリラのオリに子どもが落ちる事件があった。そもそも動物園自体が人間以外の生き物の権利を無視した人間中心主義の傲慢なものだが、それ以上に残念で悔しかったのが、増え過ぎてどうしようもなくなった人類の中のたった一つの命のために、絶滅が危惧されるゴリラを、危害を加えるかどうかも判然としない段階でさっさと射殺してしまったことだ。こんな人権感覚など、私に言わせればキチガイ沙汰だ。
そしてまた、身体的にも経済的にも辛く苦しく、生きる希望もなくて安楽死を求める人にまで人権派はエラソーな理屈を並べ、命が大事、死ぬな生きろとしつこく迫る。それならばまず、苦しむ人に代わって経済的負担はすべて肩代わりし、たとえば針で自分の体を刺すなどして同等の痛みを負い、「自分も苦しみに耐えるから、あんたもガンバレ!」というくらいのことをしたらどうだ。相手に散々苦しみを押し付けておきながら、自分自身はなんの苦痛もなく言いたい放題の自己満足ではないのか。人権派が皆そうだとは思っていないが、人にちょっかいを出す以前に自分自身の責任にしっかり向き合い、相手を尊重したうえで行動してほしいのだ。
先の人権派好みの二つの言葉に対して、私はこう言いたい。「人の命はクソより軽い」「現代文明人は生きているだけでは害になる」。そして人権に対して私はこう考える。「人権は人間中心主義の傲慢の塊」
人が生き物として安心して暮らして行くには、自然との共生を目指した生活が基本になる。しかし今の人間社会は自然と断絶する方向に急速に進んでいる。永遠の命の循環に欠かせない「うんこはご馳走」に向き合えない原因が、現代人の常識や良識にあると考えるからこその批判なのだ。もう一度繰り返す。「常識は思考停止、良識は八方美人の自己保身、人権は人間中心主義の傲慢の塊」これを正していくには、どうすれば良いのか?
ウンコを非難する良識派を、私は常々「無知と無責任と傲慢の塊」と批判している。ここで言う無知・無責任・傲慢は並列にあるのではなく、無知だから無責任になり、無責任から傲慢が生まれる、という因果関係で捉えている。つまり、ふんぞり返った傲慢をなんとかしたいと考えるなら、その根本にあるウンコについてきちんと知らせることから始めなければならない。それには批判でやっつけようという闘いではなく、知って学ぶための教育が重要だと考えるようになってきた。
昨年まで3年間続いた慶応義塾でのウンコ講義では、受講した200名余の学生全員からレポートの提出があった。その中には「自分から進んでウンコ話を聴こうとはしないが、授業だからこそ目からウロコの貴重な話を聴けて良かった」という意見が複数あり、さらには「子どものうちにこういう話を聞いていれば…」というものもあった。ウンコへの偏見など固定化された常識を破るには、すべての学生に、それも小中学生のうちに、義務教育で糞土思想を学ばせるのが最善の策かもしれない。
舌の調子が思わしくなく、春先からしばらくの間講演を控えていたが、再開した8月はいきなり毎週泊りがけ(2泊・3泊・2泊・1泊)という過激な講演旅行になってしまった。しかしその内の2つ、新潟県津南町での「山の学校」と鳥取県大山町での「大山ガガガ林間学校」は、大人がすべてお膳立てした安心安全楽ちんではなく、子どもたちに自主性と責任をしっかり果たさせる本物の教育プログラムだった。子どもだからと手を抜かず、2時間みっちり糞土講演を聞かせた後の子ども達の、特に小学5~6年の女子児童の行動には目を見張るものがあった。とにかく子どもたちは、本気で打てばしっかり響いてくれるという確信を私に与えてくれた。