ウンコになって考える  ①ウンコは責任

多くの人にとってウンコは、健康面などで関心を持つことはあっても、しょせん臭い汚物でしかない。なかには肥料や燃料にもなる資源と捉える人もいるが、少数派だ。もちろんそれは非常に大切なことなのだが、単にウンコを物として考えるのでは、少し物足りなさを感じてしまう。
さらに野糞となると、トイレを使えない場合の非常手段にすぎず、むしろ罪悪感さえつきまとってくる。

そんな世の中で、ウンコの大切さや野糞の素晴らしさを広めようなどとは、ある意味とんでもない暴挙かもしれない。それでも、キノコやウンコのスライドを交えたウンコ講演会に来てもらった方々には、それなりに理解されたと思う。しかしその数は微々たるもので、全国規模で見れば10万人に1人か2人というレベルだ。

ウンコと野糞に真剣に取り組んではや38年。写真家をやめて糞土師になってからでも6年の歳月が流れた。この間多くの偏見や批判にさらされ、憤りや無力感にさいなまれることもあったが、むしろそのお陰で糞土師は鍛えられてきた。そして巡り着いたのが、『ウンコになって考える』という考え方、生き方である。その真髄を、これから数回に分けて書いてみたい。初めは、これまでの繰り返しになってしまうが、ウンコの実体について・・・

生きる基本は、まず第一に食べること。その食べ物は、肉魚米野菜・・・すべて命ある生き物だ。つまり食は、他の命を奪って自分の命にすること。さらに、旨くて良い香りの食べ物を、臭くて汚いウンコに変えたのは、他ならぬ自分自身だ。
他の生き物を食べることは、動物である人の宿命だから仕方がない。しかし、命を奪って汚いウンコを生み出したことに責任を持つのは、少しでも良識があるなら当然のことと考えるのだが、皆さんはどう思うのだろう?
生きるとは、食とは、そしてウンコとは何なのだろう。その本質まで考えなかったことが、ウンコへの偏見につながっていたのだと思う。
『ウンコは責任』これがウンコになって考えることの基本にあるのだ。