先住民宣言

糞土師:伊沢 正名 (茨城)

■ノグソの犯罪性
 糞土講演の後の質疑応答などでよく出る意見に、ウンコ自体の価値は認めてもノグソという行為に対しては、社寺林など聖域とされる場所だけでなく他人の林(土地)ですることへの是非がある。
人の集まる公園などで野糞をすれば軽犯罪法に触れるが、その場合は千円以上一万円未満の科料(罰金のようなもの。ちなみに正規の犯罪では罰金と言い、それは一万円以上)を払えば免罪される。むしろ、汚物とみなされたウンコをトイレや処理場などで正規に処分しないことへの廃棄物処理法違反や、他人の土地に無断で入り込む不法侵入罪、そして野外で尻などを剥き出しにする猥褻物陳列罪などの方が重い犯罪に問われることになる。
 そしてまた、ノグソの真の目的は食べて奪った命を自然界の生き物に返すことなのだが、その崇高な理念を理解する人は少ない。
 つまり現在のこの法治国家においても、ノグソ自体の違法性は非常に低いのだが、無理解な人々、特に自分は良識があると自負している人々の思い込みにより、ノグソは重大犯罪であるかのように誤解され、非難の対象になっているのが実状である。「命の素の純良肥料を施しているのだ」という糞土師の主張は確信犯としか見られず、それを危惧する見方は糞土研会員の中にすら色濃くある。

■ソーラーパネルの恐怖
 近頃の再生可能エネルギーブームにのって、各地でソーラーパネルの設置が急速に広がっている。我が家にも何度も何度も「使っていない土地はないか」とソーラーパネルの勧誘電話がかかってきた。生き物のいない屋根などに載せるならまだしも、しばしば緑豊かな林を伐り払い、さらにはザックリと山肌を削り取ってすべての生き物を追い出し、無機質なパネルを一面に敷き詰めてゆく。これは地主と業者が合意すれば可能なことで、土地の所有権さえあればそこで何をやっても基本的には自由なのが、この国の現実だ。
 元々その土地で生活している多種多様な動植物や菌類が生み出すエネルギーは、生き物の生存に不可欠な有機物や酸素の生産、雨水の保水や大気の浄化、気候の緩和、死んだ生き物を土に還して新たな誕生につなげる命の再生などなど、それは計り知れないほど豊かなものである。それに比べてソーラーパネルから得られる電力の価値など、いったいどれほどのものだろう。
 ところが、自然のなかで生き物が生み出すそれらの価値はほとんどお金にはならず(金額に換算することはできるが)、その反面、ソーラーパネルの設置やそこから得られる電力は金儲けに直結する。そこに、欲に目がくらんだ人間が陥りやすい落とし穴がある。そして大問題なのが、地主一人の判断でそれが実行されてしまうことだ。
 土地の所有権というのは、言うなれば悪魔に心を売り渡して手に入れた恐ろしい権利ではないか。そして多くの良識ある人ほど強く、この悪魔の権利を遵守すべきだと信じていることが悲劇だ。
 「糞土師が闘う相手は良識だ」としばしば私が言っているのは、「人の命は地球より重い」などとのたまい、人間以外の生き物の命も価値も無視し、希望や夢などという言葉で自分たちの目先の欲望を美化して突っ走る人間中心主義への批判なのだ。人権も良識も遵法精神もそれ自体はすばらしいことだが、守るべきものの本質をきちんと見極めておかなければかえって悪い結果を招きかねないだろう。

■土地の所有権
 土地の所有権というのはいつ頃生まれたものなのだろう。ウンコ以外のことになるとさっぱり知識のない糞土師なので、これから書くことに誤りがあるかもしれないが、そこは大目に見ていただき、言わんとする中身を汲み取ってもらえればと願っている。
 少なくとも縄文人やアイヌなど狩猟採集を生きる糧としていた先住民の世界には、たとえば部族間の縄張りのようなものはあったとしても、個々人の土地の所有権という概念は無かったのではないかと思う。彼らにとっては自然(大地)から得られる幸こそ最も大切なものであり、それ以上に彼ら自身が自然界の一員であっただろう。もし仮に、先住民の生き方が自然との共生ではなく寄生的なものであったとしても、宿主を絶やしてしまっては元も子もないし、そもそも道具しか持っていなかった彼らにそんな力はなかったはずだ。
 ところが、より強い力(文明)を持ったヨーロッパ人がアメリカインディアンやインカ帝国などを侵略し、この日本においては我々大和民族がアイヌや琉球王国などに攻め込んで、土地を奪い、生活文化を破壊し、さらには言葉(心)まで奪い去って、現在に至っている。土地さえ手に入ればそこに存在するすべてが我が物になり、何をしようが自由だという侵略者の勝手な理屈が権利となって、いつの間にか文明社会にそれが定着してしまった。近頃問題になっているアイヌや朝鮮などの人々への口汚いヘイトスピーチや、植民地支配同様に米軍基地を沖縄に押し付けて恥じない我ら大和民族が作り出した安倍政権なども、その現れのひとつだろう。そんな中にあっても、同じ人間である先住民や被差別者に対しては、その罪を自覚出来る良識人は大勢いる。しかし人間以外の生き物や、さらには命を育む土台となる土や水や大気などに対しては、相手の立場に立ってまともに対応できる人がどれだけいるだろう。

■糞土師の新たな覚悟
 残念ながらかく言う私自身も、この文明社会に産まれ、生きてきた人間の一人であり、そこから逃げることはできない。しかし糞土師になったお陰で、良識人に無視され足蹴にされる中で、虐げられる者の気持ちが、そして良識というものの実態がかなりはっきり判るようになってきた。人間であることをやめられないのなら、せめて傲慢な文明人ではなく、自然と共につましく生きる先住民的な生き方をしたい。そしてさらに、この人間社会の一員として生きてきた責任から、これまで虐待してきた人間以外の生き物(自然)にまともに顔向けできるよう、人間社会の進む道を、自然との共生を目指す方向に変えることに全力を出し切りたい。
 私は今ここに、現代の文明人をやめ、先住民となることを宣言します。