糞土師、死にそこねる ~ウンコになって考える~

 8月24日、飯能でのオーガニックガーデン・マイスター講座では、前夜からの泊まり込みで受講生の皆さんと交流を深めた。参加者は造園や建築、飲食関係などの他に、介護や福祉に携わっている方もいた。
 死んで腐って土に還るという命の循環では、死の問題は避けて通れない。自然死や自然葬を理想とし、人為的な延命治療を拒否して死を肯定する糞土師の考えは、特に介護関係などからは強い反発があるだろうと思っていた。しかし、なぜかその日の話題の中心は、死を巡るものになってしまった。
 批判を恐れず、死の意義について、ウンコになって考えてみよう。

 人は生きるために、多くの生き物を食べて命を奪うだけでなく、生活全般に亘る物資やエネルギーを得るために自然を破壊し、無数の生物を死の危機に追いやっている。元気で有意義な人生を送るためならまだしも、寝たきりで生きるよろこびも感じられなくなった命を長らえさせるために同様の犠牲を、自然や他の生き物に強いてもいいのだろうか。もちろん、もっと生き続けたいと願う人自身の生きる努力まで否定する気など全くない。しかし、周囲からの命の押し売りには反対なのだ。
 しかもその裏では、だれからも批判されにくい「命」を笠に着た「人権」に守られて、大金を生み出す延命治療が大手を振ってまかり通っている。その一方で、金にならない自然死や、奪った命を自然に返す土葬や鳥葬などの自然葬には残酷や不衛生などのレッテルを貼って遠ざけ、禁じてしまう。金のために命と死をもてあそんでいる、と言っては言い過ぎだろうか。
 ちなみに私は死期を悟ったら、つまり命を返す野糞ができなくなったら、どこかの山中にこっそり穴を掘り、自然死を迎えて朽ち果てるのが願いだ。

 科学や医学などの進歩で豊かで快適な生活が実現し、病や死まで遠ざけて人間社会は発展した、と多くの人は考えている。ところが、その結果はどうだろう。
 すでに70億を超えた人口増加は、食糧危機や資源・ゴミ問題、温暖化などの様々な環境問題、さらには多くの生物種の絶滅や原発の放射能問題に至るまで、地球全体を崩壊寸前の危機的状況にまで追い込んでしまった。
 夢や希望、発展などは明るいプラスイメージで捉えられるが、実は「ああしたい、こうなりたい」という、しょせん欲望ではないか。それを美しい言葉でごまかし、正当化して、欲の限りを尽くして辿り着いたのが、今のこの人間社会の姿であり、自然環境の惨状だ。

 ウンコは、食べ物から必要な養分を取った後の残りカスで死物だが、自然に返せば新たな命の源となる。食べて作り出したものが自分の体とウンコであるならば、死骸はウンコと同じだ。他の生き物から奪った命をお返しして、生きた責任を果たす出発点にあるのが、実はウンコと死なのだ。
 自然の中ではウンコも死骸も、動物・菌類・植物という多くの生き物に食われ、吸収されて消滅しながら、それらの生き物を生かし、新たな命として蘇る。そこにあるのは無念や悲しみではなく、命を返すよろこびであり、生きた責任を果たす大きな満足感だ。

 命の尊厳とは、単に命を長らえさせればいいというものではなく、生きるよろこびを実現するところにあるだろう。また、一つの命を生かすために犠牲になる、他の多くの命に思いを寄せることも大切だ。私の大嫌いな言葉のひとつが、いかにも人権派が好みそうな「人の命は地球より重い」という、一見崇高そうだが、その実他の命を省みない倣慢な人間の思い上がりだ。
 私は何年も前から健康診断を受けていない。早期発見、早期治療は長生きのための手段だ。しかし長く生き続ければ、それだけ多くの命を奪うことになるし、死ぬまでに長い時間があると思えば、あれもこれもとつまらない欲に走ってしまう。むしろ私は、死を受け入れることにした。いつやって来るかわからない死を思えば、無駄な時間はない。今ここで元気にしていても、明日事故に遭って死ぬかもしれない。そう考えれば、生きている今を精一杯有意義に過ごしたくなる。世間の評価も生活の安定もあった写真家を捨てて、偏見にさらされ収入の保証もない糞土師になったのは、最も大切なことをやれるだけやり切って、にっこり笑って死を迎えたいからだ。死を遠ざけようとするよりも、死と真正面から向き合うことで、より良い生き方が見えてきた。

 そんな話をした飯能からの帰り道、駅に着き、自転車で夜道を家に向かっている時だった。後ろから車のライトが迫ってきた。ちょっと危ないなと思った次の瞬間、背後から強いショックにはね飛ばされ、仰向けになって固い路面に落っこちた。道路脇にいた目撃者の通報で間もなく救急車とパトカーがやってきた。とんだ騒ぎになってしまったが、自転車こそ壊れたものの、私自身は左腕をほんの少し擦りむいただけだった。
 マイスター講座は合宿形式で、寝袋と着替えなどが詰まったザックを背負っていたのが幸いした。ぶ厚いクッションがほとんどの衝撃を吸収してくれたのだ。だがしかし、身体が水平ではなくもっと回転していたら、後頭部を打ったり脳天から落下したりして、どうなったかわからない。まさにウンまみれの、糞土師ならではの幸運だった。

 すでに死を覚悟していたからだろうか。その時もその後も、恐怖はみじんも感じなかった。それどころか、偉そうに死について語った直後に起きたこの事故は、口先だけでないことを証明し、むしろ説得力が高まったのではないか、と、ほくそ笑んでいるくらいなのだ。