続・ウンコになって考える

 『ウンコになって考える』を書いてから2年になる。その間に生き方や死に関わるいろいろな考えを知り、私自身も経験を重ねて思索を巡らしてきた。その思考はまだ半ばにあり、まだまだ深めなければと考えているが、一度この辺で提示してみることにした。

◆ 死にそこねる
 8月24日、飯能でのマイスター講座を済ませ、池袋へ出て編集者と出版の打ち合わせをした帰り道、駅から家へ向かう夜道で私は死にそこなった。
 人っ子一人いない広い歩道がありながら、殊勝にも道交法を守って車道の左端を自転車で走っていると、前方に路上駐車している車に気が付いた。その時、後ろから車のライトが迫ってきた。自転車を止めてやり過ごそうか、それともさっさと前方の車を越してしまおうかと迷っているうちに、突然背後から強烈な衝撃を受けて私は宙に舞った。何がなんだかわからないうちに、体は仰向けになって固い路面に落っこちていた。
 道端にいた目撃者の通報で、間もなく救急車とパトカー2台がやって来た。しかし、自転車はひん曲がってダメになったものの、体は奇跡的に、左腕をほんのちょっぴり擦りむいただけだった。たった1枚の小さなカット絆を貼るためだけに来ることになってしまった救急隊員に、思わず私はゴメンナサイをしてしまった。
 合宿形式のマイスター講座に合わせて、寝袋や着替えなどが詰まったザックを背負っていたのが幸いし、それが強い衝撃を吸収してくれたのだ。だが、体がもっと回転して頭から落下していたら・・・

 そんな死と隣り合わせの危機一髪を体験したにもかかわらず、その時もその後も、恐怖心はまるで感じなかった。それどころか有り難い体験をさせてもらったと、むしろ感謝の気持ちすら湧いてきた。
 ウンコになって考えるとは、一つの死生観であり、「ウンコ」イコール「死」なのだ。ウンコになるということは、死を受け入れるということに他ならない。昨年の3.11大震災でも、もしもぐっすり眠っている時に地震が来たら、という仮定での死は想像したが、今回の事故は正に、死に直面した現実の出来事だった。そんな状況下で死を怖いと感じなかったのが、たまらなく嬉しかった。私もいよいよ、本当にウンコになってきたのだな、と実感することができたのだ。

◆ 生きるということ
 生きていくには、身体を作り、活動するエネルギーを生み出す栄養を得なければならない。そのために食べる肉魚、野菜穀物・・・それらはすべて動植物などの命ある生き物なのだから、生きるとは、他の命を奪って自分の命にすることだ。
 そして、食べて出来上がった物がウンコと肉体だ。ウンコは食物の残りカスの死物であり、肉体も死ねばウンコと同じカスになる。しかしどちらも、本来の自然の中では他の生き物に食われて、それらの命になって蘇る。
 ウンコは汚いものとして、死は悲しみや苦しみ、無念、前途のない終わりとして、忌み嫌われ遠ざけられる。しかし見方を変えれば、ウンコと死骸は始末のしかたを誤らなければ、自分が生きるために奪った命を返すための、唯一無二の大切なものだ。
 ちなみに現在のこの人間社会では、水洗トイレに流したウンコは、処理場で最後は燃やして灰になり、死骸も火葬で灰になる。「食」という生き物から始まる我々人間の「生」は、他の生きものに命を返さずに、わざわざ石油などの資源を浪費して、灰という「死物」になって終わっている。

 食事の前に手を合わせ、「いただきます」と言う人は沢山いる。そしてそれが「命をいただきます」という意味だと知っている人も多い。しかし私はそれを、半分空しい気持ちで見聞きしている。
 食べ物への感謝を心の中で念じ、口に出して言ったところで、いったい何を実行しているというのだ。口先だけの自己満足ではないか、と。命を奪ったなら、命を返したらどうなのだ。おいしいご馳走を臭くて汚いウンコにしてしまったなら、きれいに浄化したらどうなのだ。死んで役目が済んだ死骸なら、土に返してこそ本当の感謝ではないのか、と。
 生きること、すなわち食べて出すこと、つまり食べ物とウンコの実態を、正しく理解している人は残念ながら非常に少ない。そして、生きることへの欲や権利はさんざん主張しても、そのことへの責任を自覚している人は、これまた少ない。その一方で、ウンコや死(死骸)を汚らわしい忌み嫌うべきものとしてタブーに包み、遠ざけて平然としているだけでなく、それを他人にまで押し付ける人が大勢いる。この人間社会で皆が正しいと信じて疑わない常識や良識は、最も大切な命の基本である「食」と「ウンコ」と「死」に関して、実は、無知と無責任と傲慢で凝り固まっているのではないか。

◆ 死について考える
 死骸もウンコも同じ死物というだけでなく、生態系の中で循環する物質として見れば、他の動物に食われ、菌類に分解され(食われ)て無機物になり、さらにそれは植物に吸収され(食われ)て消滅する。しかし食われる度に、それらの生き物の体となり、エネルギーとなって活用される。いわば命の形を変える、いっさい無駄のない大切なご馳走なのだ。
 我々人間は、生きている限り食べ続け、他の命を奪い続けなければならない。しかし死ねば、もうこれ以上の命を奪わずに済むだけでなく、生態系の循環にきちんと死骸を乗せれば、命を返すことまでできるのだ。
 自分中心に物事を考えれば、生きることは素晴らしいだろう。しかしそれは、他の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。だから私は野糞をし続けているし、死んだら間違っても火葬などされないように、最期に備えた計画も練っている。
 とは言え、生は自己中心で残酷だと否定したり、単に死を美化するつもりもない。人は動物である以上、食べて生きるのは宿命であり、生きる権利でもある。しかし、権利を主張するなら、それに見合っただけの責任を果たしたいのだ。つまり、奪った分の命を返して、バランスを取りたいだけなのだ。

 そしてもう一つ、「死」には「生」を輝かせる素晴らしい効果がある。
 死を見詰めること。それは、事故に遭ったりして何時やってくるかも知れない死に対して、覚悟を決めることだ。その時は、すぐ目の前にあるかも知れない。そう考えれば、無駄に過ごす時間はない。生きている今を大切にして、悔いは残したくない。だからこそ私は、世間の評価も経済的安定もあった写真家を捨てて、もっと大切な事に挑戦したくて、糞土師になった。そして今の私は、写真家だった頃よりはるかに大きなよろこびを感じながら、毎日を送っている。

◆ ウンコになるよろこび
 人は皆、よろこびを求めて生きている。私だってそうだ。責任感だけの重苦しい人生など送りたくもない。講演会などで私の口から最も多く出てくる言葉はウンコと野糞だが、責任という言葉も非常に多い。そして私は、生きる責任を果たすことを最重要課題にしている。ところが私の糞土師活動は、重苦しいどころか、楽しくて嬉しくてたまらないのだ。だからこそ、総数12.200回、連続野糞12年半(現在も更新中)という記録が達成できたのだ。
 糞土講演会での評価の上位には常に、「こんなに楽しくウンコの話をする人に出会ったことはない」という声がある。その一方で否定的な意見でさえも、「軽犯罪法に触れる野糞を、人前でこんなに楽しげに話すとはけしからん!」となってしまう。それくらい、私は楽しさの真っただ中にいる。

 よろこびには二つの種類がある。
 一つは、たとえば食のように、自分が欲するものを得て満足する、「奪うよろこび」。そこには、奪われてマイナスを被る相手がいる。
 もう一つが、愛のように、相手を満足させることで自分もしあわせを感じる、「与えるよろこび」だ。ここでは、自分も相手も、共にしあわせになれる。私が日々実践している野糞も、講演会などで訴えていることも、この与えるよろこびなのだ。そして、食われて消滅しながら生きる責任を果たしてゆくウンコこそは、与えるよろこびを実現する象徴なのだ。
 夢や理想。発展などという耳にやさしい言葉で欲望を覆い隠し、ひたすら追求してきた奪うよろこびは、もうこの辺で止めよう。そして、ウンコに倣って与えるよろこびに転じよう。これが、「ウンコになって考える」ことの真髄なのだ。