野糞は野蛮か最先端か

 糞土思想の核心は「野糞は命の返し方」。しかし、野糞自体は野生動物と同じ排泄方法である。現在の多くの水洗トイレ派にとって、それは不衛生ではしたない、野蛮な行為と映るにちがいない。
 つい最近も私の講演を聴いた某最高学府の教授から、「野糞の意義はわかるが、衛生問題を解決しなければだめだ。」と否定された。私にしてみれば、そもそも何のための衛生なのか? むしろ、不衛生→淘汰→生き物社会の健全化、という議論をしたかったのだが、上品な会食の席だったために遠慮した。

 地球温暖化による異常気象の多発や多くの生物の絶滅危惧など、環境破壊は益々深刻化し、自然との共生は人類の最重要課題になった。しかし我々人間は、真の共生に向き合おうとしているだろうか。
 命の素(有機物と酸素)を植物に依存し、菌類に後始末をしてもらってはじめて、動物は生態系の中で共生していける。その動物の中で唯一共生の環から外れているのが人間で、他の動物との決定的な違いが、野糞をしているか否かなのだ。
 人類が自然と共生するには、先住民的な生活が理想であり、『糞土研究会会報 ノグソフィア』で安田陽介さん(糞ドルネーム:糞坊主)が連載中の縄文人やアイヌの生き方に学ぶところは多い。ところが縄文人もアイヌも、ウンコは命を返す神聖なものではなく、汚れと捉えていたのだ。私自身も昨秋の青森で、白神山地のマタギの貴重な話を聴くことができた。しかしそこでも、マタギは水を汚さないように沢から離れた所にスノ場(便所)を作り、神の通る道だとする山の尾根筋では決して野糞をしない。それでも彼らは自然と共生できたのはなぜか? 豊かな自然の中で生活していたからこそ、たとえ便所にしたウンコでもきちんと土に返ったのだ。
 それに対して今の人間社会の衛生観念は、ウンコを焼却処分して灰にしなければ気が済まない。そこには自然への感謝も信頼も、まともな英知もない。それでいて偉そうに共生を言う横柄な態度に、人間社会の一員として私は本当に恥ずかしい。

 糞に対する無知と無責任と傲慢さに、人間社会にはびこる良識のいかがわしさを訴えた「ウンコは良識の踏絵」を書いてから5年になる。この間ほんの数名だが、この人こそは本物の良識人だと判断したジャーナリストや政治家、映画監督などに、糞土思想の資料や本を添えて手紙を差し上げた。その結果は、ことごとく無視され、返事は来なかった。
 変な趣味ではなく、生きる責任や命を返すことをしっかり伝えたつもりだが、とにかくウンコや野糞というだけで、まともに相手にしてもらえない。
 いや、実は唯一の例外として、講演を聴いてもらえた某村長から、自己紹介を兼ねて同封した本(元写真家としての)へのお礼が、あることはあった。しかし肝心のウンコに関しては、一切触れてこない。それでなくてもクレーマーの餌食になりやすいウンコ問題だけに、個人としてではなく公の村長としての立場から、大きなためらいがあったのだろう。と解釈して、残念だがそれ以上の無理強いは諦めた。
 ところで、それらの方々を選りすぐりの良識人と見込んだ判断材料は、環境や平和、人権、食と命など、ごく普通に議論されるものばかりで、ウンコ関連の発言などは一切含まれていなかった。やっぱりウンコは、はるかにレベルの違うタブーなのだ。
 以前の私ならその結果に、「その程度の良識だったか」で終ってしまったかもしれない。しかしそれでは相手に失礼だし、自分自身にとっても悲しい。信頼できる人がいなくなってしまうのだから。そこでようやく、糞土思想のとんでもなさに気が付いた。

 無学な私は確かな事は知らないが、以前から自然葬や宗教の中には「命を返す」という概念があったと思う。しかしそれは「死によって命を返す」というものであり、「生きながら命を返す」という思想は無かったのではないか。ところが糞土思想には、一切の犠牲がない。生きているままで、不要になったウンコで、しかも楽しみながら命を返すという、ある意味とんでもない考えであり、行為なのだ。糞土思想は現代の地動説だったのだ。
 コペルニクスが唱え、ガリレオ・ガリレイが明らかにした地動説。それは自分たちの地球を中心にして、周りを太陽や星が回っていると皆が信じて疑わなかった天動説の時代になされた、真理の大発見だ。しかしそれは称賛されるどころか、とんでもない奴だと迫害され、ガリレイは宗教裁判にかけられた。下手をすれば火あぶりの刑だろう。

 糞土思想は野蛮どころか、これからの人間の生き方の指針となるべき最先端の考え方だろう。それなのに理不尽にあしらわれるところなど、まるで天動説の時代の地動説と同じではないか。その時代の常識・良識を翻すことの難しさは、当然のこととして受け止めるしかない。あせらず怒らず絶望せず、地道に糞土師活動を続けていこう。少し気持ちが楽になり、新たな決意が湧いてきた。