ウンコは良識の踏絵

糞土研究会ができて3年、糞土講演会や『ノグソフィア』『くう・ねる・のぐそ』などを通じ、ウンコの重要性は徐々にだが理解され、着実に世間に受け入れられつつあると思っていた。ところが最近新聞などで、ウンコというだけで頭から拒否されてしまうのだ。『食』と並んで非常に大切な『糞』なのだが、じつは現在の日本社会では最も嫌われ、差別されていたのだ。『野糞』に至っては犯罪扱いである。

たとえば2004年、法務省の人名用漢字見直しにあたり、市民からの削除要望が729通寄せられた。その中で過半数の383通が『糞』をあげ、2位の『屍』317通、3位の『呪』266通などを引き離して文句なしの1位だった。糞や屍が腐って土に還ってこそ、自然の中で物質循環が成り立ち、永遠の命の連鎖が可能になるというのに。単に汚らしい、忌わしいという感情だけで本当に大切なものが排除されていく社会に、私は大きな危機感を覚えた。しかもそれが、良識派を任ずる人たちによって推し進められていることに。

さらに現在、良識の先頭に立つはずの新聞社の幾つかでは、すでに糞の字を使わなくなったと、ある新聞記者から衝撃の事実を聞かされた。日本社会の清潔病が、そして行き過ぎた自己規制の危うさが、知らぬ間にここまで広がっていたとは!

私たちは生きるために、自然の中で育まれた多くの生き物を食物として食べる一方で、毎日ウンコを出し続けている。そのウンコ=人糞は、人にとってはすでにカスでも、他の生き物には大変なご馳走であり、命の源として自然の中で循環し続ける。しかもウンコは、人が自然に返せる唯一の物だ。自分を生かしてくれた食べ物=自然に感謝するなら、それを形に表すことができるウンコを無責任に放り投げたりせず、しっかり受け止めることこそ良識ある人のとるべき態度ではないのか。たとえどんなに高貴なお方でさえも、日夜せっせと糞作りに励んでいるのだから。

現在の日本社会には、「ウンコは臭くて汚い、遠ざけるべき物」という常識が蔓延し、残念ながらウンコの本質を真剣に考える風潮はほとんどない。しかし、より良い社会を目指そうという良識人を自任するなら、自分で出したウンコの後始末=ウンコをきちんと活かすことに責任を持つのが当然だろう。

人それぞれ主義主張が違い、生きている世界も様々だが、食とウンコだけは万人共通の絶対的なものだ。私個人の考えを他人に押し付けることはできないが、『ウンコの責任』だけは自信を持って皆に問い質すことができる。

『ウンコは良識の真偽を見分ける踏絵』なのだ。

 さあ、あなたはこのウンコを踏めますか?