トイレ的思考と土的思考 会報25号(2019年)より

30代女性会員からの寄稿です。

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鶴のうん返し:Y.E.(北海道)

みなさん初めまして。北海道在住のY.E.と申します。
一昨年、伊沢さんに自宅で講座をお願いして以来、自分が気持ちいいと思える範囲で「マイペースノグソ」を続けています。

我が家は原野の中にポツンと立っており、仕事も自宅でしているため、「マイペースノグソ」の障害となる外的要因はほとんどありません。
誰にも会わずにことを終えられますし、たとえ埋めずに置いておいても、3日もすれば獣や虫に食べられて跡形もなくなっています。
ですから、継続の成否は主に自分自身の心の持ちようにかかっています。
これまで、継続にあたって最も力となったのは、「ノグソってなんて清潔なんだろう」という驚きと、「土に受け容れられた」という安らかな感覚でした。

「ノグソ」と囁かれた人が反射的につぶやく言葉は、100人中80人くらいが「汚い」なんじゃないでしょうか?
汚い、不潔、くさい、そんなイメージですよね。

わたしも「ノグソ」という言葉に抵抗があったので、今に至るまで自分では「お返し」という言葉を使っています。
初めて「お返し」をしたとき、それはいわゆる「バケツノグソ」でした。敷地の中の誰も行かない場所に行って中身を出すと、そのままにして置いておきました。どうなるのか見たかったからです。
2日でなくなりました。
形もない、臭いもない、跡すら残っていません。もちろん野生動物が少なくても、埋めれば同じです。
「なんて清潔な排泄の仕方なんだろう!」と驚きました。

対するトイレは、ブラシの届かない場所や下水管の中がどうなっているか想像もしたくないという方が大半でしょう。不潔です。不潔だから除菌します。でも除菌しきれません。
トイレという「菌を許さない場所」では、「ばい菌」がいれば不潔に感じます。でも「ばい菌」なんてどこにでもいますから、「菌を許さない思考」である限り、結局どこまでいっても不潔です。

ところが、土という「多様な菌や生命に満ちている場所」では、不潔なものはないのです。

トイレでは不潔なものが、土の上では不潔ではなく、必要とされ、誰かの役に立っているということ。
土の上ではすべてが受け容れられ、ひとつの世界を形作っているのだということ。

少しずつ実感するごとに、「トイレ的思考」は「土的思考」へと変化してゆきました。
そして「お返し」を通じて「生き物を受け容れる土の世界」の一員となったことに、わたしは自分でも驚くほどの清々しさと安らぎを覚えたのです。

よく考えると、人間社会でも同じようなことがあります。
「要らない」「迷惑」「社会のお荷物」そんなふうに人を選別し、排除しようとする言説に出会うこともあります。
ノグソというのは、そういうすべてのトイレ的思考に対する挑戦、でもあると考えるのは話が飛躍しすぎでしょうか?

「お返し」をするたびに、わたしは土との結びつき、自然との結びつきを感じます。
残る課題は、「土に受け容れられる」という実感がわかない冬期北海道のカチコチ真っ白世界で、どうやってモチベーションを維持するか、ということです。

北国のみなさま、よいお知恵がありましたらぜひお貸しください。

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糞土研究会の紹介
https://nogusophia.com/fundo