ウンコの地力・底力

[3月10日にさいたま市で予定されていた講演『さいたさいたセシウムがさいた』抗議を受けて中止] こんな記事が、同日付の朝日新聞に載った。
講演する予定だった米国人詩人アーサー・ビナードさんは、「花が咲く喜ばしい春の訪れを台無しにした原発事故について伝えたい」と、「裂いた」の意味も込める趣旨だったというが、「福島県民を傷つける」などの抗議が約40件寄せられたという。

またしても上辺だけで槍玉に挙げて非難し、本当に大切なものを潰してゆく“良識派”のいかがわしさを痛感した。不愉快なのは自分自身なのに、福島県民の名を借りてクレームをつけ、己の責任を棚上げする。これは石原都知事などがよく使う卑劣で嫌らしい手法だ。
そしてまた「不快な思いを抱かせたのは申し訳ない」と簡単に批判に屈して中止を決定してしまう、信念のない軟弱な実行委員会もだらしない。当のビナードさんの思いはどうなのだろう。
これでも愛国者の私は、こんな日本人の下劣さを笑われまいかと恥じている。私の愛国心は、日本人の顔に泥を塗らないように、ペルーのクスコまで行きながら、たった一度の野糞のためにマチュピチュ観光の予約をどたキャンしたくらいなのだ。
それにしても、クレームと自粛が病的なまでにはびこる日本社会は、この先いったいどこへ行くのだろう。

「ウンコや野糞などとレベルが低い!」「軽犯罪になる野糞を、得意気に喜々として話すとはけしからん!」糞土講演会でも様々な非難を幾度となく浴びてきた。だから講演会を主催してくれた人などからは特に、あえて反発されるような事柄は避けて穏やかに話すように、助言や注文されることも多かった。私自身もそうした方が良いと考えたこともあるが、程なくその弱腰が誤りであることに気付いた。
ウンコの本質を知らない、自分で出したウンコの責任も感じない、そんな無知で無責任なえせ良識人がのさばるのは、こちらが遠慮して下手にでるからなのだ。
それからは、『食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方』を講演の冒頭から切り出した。食べて多くの命を奪い、ご馳走を臭くて汚いウンコに変えた自分の責任を、良識あるあなた方は自覚しているのか? 生きる責任を果たすとは、どういうことなのか、と。それ以降けち臭い非難をする人は、私の目の前からはいなくなった(陰で何を言っているかは知らないが)。

「セシウムがさいた」の話に戻ろう。
花とセシウム、咲いたと裂いた、それらはすべて自分ではない他者だし、どう捉えどう解釈するかはその人の自由だ。だから無責任に勝手なことが言えるし、傲慢の餌食にもなりやすい。しかしウンコは違う。自分自身の内に密着した責任の塊なのだから、それを突き付けられたら逃げられないし、下手な攻撃もできない。自分自身の生きる基本であるウンコに真正面から向き合うことが、自分の中に巣くっている無責任や傲慢を削り取る最も有効な方法ではないか、と糞土師は考えている。

参考までに、『ウンコは良識の踏絵』『ウンコはご馳走』『2012年、糞土師は・・・①』なども読んでみてください。